分析化学/化学分析

2025.06.29

「質量分離」か「m/z分離」か

質量分析をしている皆さん、「質量分離」と「m/z分離」、どちらの言葉を使いますか?

個人的によく聞くのは「質量分離」だと思っています。

  • この装置の質量分離部はここだ。
  • 購入予定の装置の質量分離方式は?
  • TOF-MSはイオンが検出部に到達する時間に基づいて質量分離する。

といった使い方があります。

しかし、質量分析をやる人なら百も承知ですよね。実際にはイオンの質量で分けているわけではなく、m/zで分けているんだということを。
主要な用語集などではどうなっているか、調べてみました。この表のとおりです。

Photo_20250629202701

IUPAC勧告(2013)では、立項はされていませんが「m/z separation」の語を使用しています。これに基づいている日本質量分析学会の用語集第4版(2020)も同じで、立項なしで「m/z分離」の語が使われています。

Grossの "Mass Spectrometry"(第3版)でも、1回だけですが「m/z separation」の語が使われています。(正確には「mass separation」の語も1回使われていますが、日本語の「質量分離」とは異なる意味。)

少なくとも英語では「mass separation」は分が悪いように思われます。しかしJISでは「質量分離」が圧倒的に優勢で、LC/MS通則では28回、ICP-MS通則では20回、GC/MS通則では6回使用されています。上の表は発行年順に並べていますが、2022年発行のICP-MS通則でも「質量分離」で、特に変化のきざしは無いようです。

正確でないとわかってはいるものの、「質量分離」は「m/z分離」よりも納まりがよくて伝わりやすい。私も当分「質量分離」を使い続けたいと思います。

2025/6/30 追記
「m/z分離」を通常推奨されている読み方で読むと「エムオーバージーぶんり」となり、「しつりょうぶんり」よりもかなり発音しにくい。

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2025.05.22

Rf値(TLCの)は何の略?(3)

Rf
薄層クロマトグラフィーの「Rf値」の元の語は公式には「retardation factor」らしい、IUPACが1993年に勧告した用語集に書かれているから。でもまだ普及の途上らしい・・・というのが前回の内容でした。

しかし、Rf値は最初から「retardation factor」だったんでしょうか?
Rf値という言葉を最初に作った人は、「retardation factor」から命名したのでしょうか?
IUPAC勧告 Nomenclature for chromatography (IUPAC Recommendations 1993) を読んでも、この疑問は解決できませんでした。

そこで、Rf値の元の語が書かれている書籍の中で最も古い「薄層クロマトグラフィー」(橋本庸平 著、廣川書店、1963)をひもといてみました。この本のp.5に次のように書かれています。

この方法(沪紙分配クロマトグラフィー)によると溶媒が沪紙上を移動した先端 Solvent front までの距離で試料物質が出発線 Start Line から展開溶媒(ふつう移動相)にともなって移動した距離を除してえられる比率,つまり移動比 Rate of Flow が通常Rf*(またはRf )であらわされる.

これが書かれた時点では、Rf値の元の語は「retardation factor」でなく「Rate of Flow」だったようです。この部分の引用文献は
 Lederer, E. and M. : Paper Chromatography (1955) Elsevier Pub. Co.
という夫婦か親子で書いたらしき単行本です。残念ながらこの本の入手法は見つかりませんでした。

他に手がかりが無いか探しました。「薄層クロマトグラフ法 (機器分析実技シリーズ)」(滝谷昭司 他著、共立出版、1985)にクロマトの歴史が書かれています。平面クロマトグラフィーは1944年、ConsdenとGordonとMartinのペーパークロマトの論文が最初のようです。
Biochem J, 38, 224–232 (1944)
にこう書かれています。

However, R is not conveniently measurable in paper chromatograms, so a new symbol, RF is introduced.*

おぉっ! Rf値誕生の瞬間です。これは興奮もの。

R は他の論文からの引用ですが、Fはこの時に付けられたもの。では、どの語から? 定義の式はこうなっています。

RF = (movement of band) / (movement of advancing front of liquid)

この中でfで始まる語はfrontのみです。日本語で言えば「溶媒先端」の「先端」ですね。「Rf値のfはfrontのfだった」との解釈が可能です。

ではRは? 注を読んでみましょう。

* The symbol RF is equivalent to the symbol R used by LeRosen (1942) who apparently received the paper of Martin & Synge (1941) too late to avoid using the symbol R in a different sense.

どうもRはLeRosenが1942年に使った符号のようです。では、Rの元の語は?
その論文はこちらです。平面クロマトでなくカラムクロマトの論文です。

J Am Chem Soc, 64, 1905–1907 (1942)

閲覧は有料ですが1ページ目だけ無料で読むことができます。ありがたいことに、1ページ目にRが出てきているので、ここだけでもRが何なのかわかります。式を引用します。(原文には単位が付いているが省略。)

R = (rate of movement of adsorbate zone) / (rate of flow of developing solvent)

現在普通に行われているカラムクロマトは湿式充填ですが、この論文は乾式充填について述べています。乾いた担体に移動相の溶媒がしみこみながら進んでいく・・・TLCと同じですね。

そして、式の中でrが付く語はrateだけなので、Rの元の語はrateと考えられます。
 rateとfront
これこそがRf値の元の語ではないでしょうか?
でもこの2語、つながりにくいですね。rate of frontとかfront rateとか、並べてみても意味を成しません。rate to frontなら何となく通じそう? でもそのような用例は知りません。

そこで、安易なようですが私が出した暫定的な答えはこれです。
Rf値のもともとの語はrateとfront。でもこれらは熟語にすることができないので、後世の人たちは勝手にいろいろな熟語を当てはめた末、5通りもの解釈が生まれた。

この推測が合ってるかどうかわかりません。知っている人がいたら教えてください。

冒頭の画像は「1940年代、化学者、ペーパークロマトグラフィー、定規」等のキーワードでChatGPTに生成してもらいました。初めてRf値が定義された論文で行われたのは、実際には二次元クロマトです。

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2025.05.19

Rf値(TLCの)は何の略?(2)

Tlc

薄層クロマトグラフィーの「Rf値」の元の語について、続きです。
国際純正応用化学連合(IUPAC)の用語集「Gold Book」の「RF value, R F in chromatography」には「retardation factor(平面クロマトグラフィーにおける)を見よ」と書かれています。それに従って retardation factor, R F in planar chromatography に飛ぶと次のように書かれています。

Ratio of the distance travelled by the centre of the spot to the distance simultaneously travelled by the mobile phase:
R F = b / a
By definition the R F values are always less than unity. They are usually given to two decimal places. In order to simplify this presentation the values hR F may be used: they correspond to the R F values multiplied by 100. Ideally,R F values are identical to the R values used in column chromatography.

(津村訳)
遅延ファクター, R F(平面クロマトグラフィーにおける)
移動相が移動した距離に対するスポットの中心が移動した距離の比。
R F = b / a
定義によって、R F 値は常に1より小さい。通常小数点以下2桁まで表す。単純化のためにhR Fを使用できる。これはR F 値を100倍したものである。理想的にはR F 値はカラムクロマトグラフィーにおけるR 値と同一である。(訳おわり)

「カラムクロマトにおけるR 値と同じ」・・・R 値とは何でしょうか。
Gold Bookには「R 値」の項目がありませんが、「retention factor, k (カラムクロマトグラフィーにおける)」の項目の中にR が出てくるので、これのことかなと思います。書籍の中には「retention factor」がRf値の元の語と書かれたものがありますが、「retention factor」はカラムクロマトの用語、とされているようです。

ともかくGold BookにおいてはR F 値の元の語は「retardation factor」、これ以外は書かれていない、ということははっきりしました。

ところで、英語版のWikipedia「Retardation factor」に興味深い記述があります。この項目には3つの引用文献がありますが、3つともGold Bookからの引用で、すべて「オンライン修正版(2006-)」と書かれているのです。つまり、Gold BookにRf値の元の語として「retardation factor」が掲載されたのは2006年以降のようです。

日本語版Wikipediaは「retardation factor」に未対応で立項が無く、日本語版の「薄層クロマトグラフィー」には本日現在「R f 値(retention factor value、R f value [1])」と書かれています。(参考文献1は岩波 生物学辞典 第四版)

この先は私の想像ですが、Rf値の元の語を「retardation factor」とする勧告が1993年に出されたものの、Gold Bookは2006年まで13年間も未対応で、現在、書籍やメーカーの対応がゆっくり進んでいるところなのではないでしょうか。メルク本社のウェブサイトは早めに対応した一方で、メルク-シグマアルドリッチは未対応、そして多くの書籍も未対応、これから徐々に統一されていくのではないでしょうか。
2通り程度ならともかく、5通りもの語があるのは気持ちが悪いので、統一が進んでほしいです。

冒頭の画像は、大阪市立図書館で借りた薄層クロマトグラフィーの本6冊です。大阪市の図書館事情に満足しています で書いたとおり、貴重な本も最寄りの図書館に届きます。以前は最速2日で届いていましたが、現在業務が停滞しているとのことで、9日かかりました。

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2025.05.18

Rf値(TLCの)は何の略?(1)

薄層クロマトグラフィーをする人なら誰でも知っている「Rf値」、これの元の語は、私が把握しているだけでなんと5通りあります。

retardation factor
ratio of flow
rate of flow
relative to front
retention factor
ratio to the front, ratio of fronts (2025/6/4 追加)
いったいどれが正しいのか。調べたら、私自身の答えは意外に簡単に出ました。この表のような状況だったからです。(各資料の詳細はこの記事末尾)(2025/6/4 表に2件追加)
250604_rf_value
IUPACが1993年の勧告で「retardation factor」としていて、用語集「Orange Book」でも「Gold Book」でもこの通り記載しているのだから、これでOKでしょう。(retardationは遅滞、遅延といった意味。)

とは思うのですが、1993年以後に刊行された書籍にも全くといっていいほど「retardation factor」の語は書かれていません。そもそも、Rf値の元の語が何なのか書いていない書籍のほうが多いのです。

近年はTLCに特化した本は出版されていませんが、昔は何冊もありました。それらの本にすら、Rf値が何の略なのかほとんど書かれていません。なぜなのでしょうか。
個人的に調べた結果を3回程度に分けて書こうと思います。(今日は参照元を並べるだけで疲れたので・・・)

Rf値の元の語が記載されているもの(表に並べた順)

Rf値が解説されているが元の語については記載していないもの(刊行年順)

  • 鈴木郁生「薄層クロマトグラフィーの実際」(廣川書店、1964)
  • B.S.Gritter「入門クロマトグラフィー」(東京化学同人、1971)
  • R.E.カイザー「高性能薄層クロマトグラフィー」(講談社、1978)
  • F.ガイス「液体クロマトグラフィーの最適化 薄層からカラムへ,その基本的なパラメータ」(講談社、1980)
  • 滝谷昭司他「薄層クロマトグラフ法 (機器分析実技シリーズ)」(共立出版、1985)
  • 中村 洋(監修)「分析試料前処理ハンドブック」(丸善出版、2003)
  • 日本分析化学会(編)「分析化学実験の単位操作法」(朝倉書店、2004)
  • S.P.J.Higson「分析化学」(東京化学同人、2006)
  • 化学同人編集部(編集)「実験を安全に行うために 続 基本操作・基本測定編 第3版」(化学同人、2007)
  • 日本分析化学会「分析化学用語辞典」(オーム社、2011)
  • JIS K 0214:2013 分析化学用語(クロマトグラフィー部門)

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2024.09.15

「分析化学の基本操作」:3つのポイントに絞った入門書

新刊のご恵贈をいただきました。上本道久さん「分析化学の基本操作: 器具選び・試料処理・データ整理」(丸善出版、2024年8月30日発行)です。(私のウェブサイトでは「先生」を使わない方針なので、「さん」で失礼します。)

Photo_20240915052901

詳しい紹介の前に、この本の内容からうんちくクイズを3問出しましょう。答えは記事の最後に書いておきます。

① 「時計皿」はなぜこの名前が付いたでしょうか?

② アスピレーターで圧力が低下するのは「○○効果」の働きです。○○とは?

③ LC/MSにも欠かせない窒素ガス発生機ですが、どんな原理で発生させている?

 3つのポイントに絞った入門書
この本は、わずか3章から成っています。3章とは副題のとおり「器具選び・試料処理・データ整理」です。
通常の分析化学の教科書にはこれらの他に個別の分析法の解説が書かれていて、ボリュームとしては個別分析法が7~9割といったところと思いますが、この本では個別の分析法をスッパリ抜いているところが特徴的です。

考えてみれば、教科書に書かれている滴定から蛍光X線からNMRまで全部必要という人は滅多にいないわけで、共通する3章だけに絞るのは良いアイデアです。使用する分析法が限られている場合は、この本+必要な個別分析法の本でまず勉強するのも良いように思います。

目次は版元サイトで確認できます。
「分析化学の基本操作」(丸善の紹介ページ)

 器具の図とうんちくが味わい深い
第1章「分析化学で使う器具」と第2章「分析化学における単位操作(基本操作)」では、図の充実ぶりがうれしいです。「化学図録」のようにカラー写真がふんだんに入っている本もありますが、「分析化学の基本操作」にはカラーページは無く、器具や操作法のモノクロの図が掲載されています。その図が簡素な線ながら正確で美しく、ピンチコック、試験管ばさみ、クランプ、ムッフ、洗瓶といった分析試験室にころがっているようなものまで、なんだかときめく絵柄です。また、それぞれの解説には冒頭でクイズにしたようなうんちくが含まれています。職人は道具にこだわると言われますが、誌面から器具へのこだわりを感じます。

類書に日本分析化学会(編)「分析化学実験の単位操作法」(朝倉書店、2004)がありますが、これは網羅的で分厚く高額な本です。「分析化学の基本操作」のカバー範囲は、一般的な器具や操作をほど良く選択していると思います。

 著者の主観が語られる
科学技術書ですから、もちろん文章のほとんどは文献に基づく事実なのですが、ところどころに著者の主観的な表現があって親しみやすいです。いくつか例を抜き出します。

分析化学の実験室に入っててんびん皿の清浄さを一目見るとその実験室の水準がわかるとはよくいったものである。(p.99)

あるあるですね。「天秤の水準器の泡が中央にあるかをまず見る」という話も聞いたことがあります。

(試料調達について)本項で気をつけるべきことを整理すると、試料の代表性、汚染、分量、変質、などであろうか。(p.93)

「であろうか」という散漫な印象の書きぶりが風流。

手袋の使用の是非は流儀もあるが、現在は常用の方向に傾いているようである。著者はフッ酸などの劇薬以外はあまり手袋を使わないほうで、素手の感覚を大事にしていた。(p.88)

「わかる~」と思いました。共著者が多いほど安全側に寄りがちですが、こんなことも書けるのが単著の醍醐味かも。

(白衣について)薄手半袖で、首でボタン留めする"ケーシー型"といわれる白上衣もあり、著者は(中略)この白衣を愛用していた。(p.87)

個人的なことですが、国立医薬品食品衛生研究所の上司だった故・伊藤誉志男部長が常にこの白上衣を着ておられたのを懐かしく思い出しました。

 注意点
知らずに買うと期待はずれが起こるかもしれない点についても、二つ書いておきます。

一つめは、第3章「分析値の信頼性確保」では他書を読むことを勧められるという点です。
この章は有効数字や不確かさなどを扱っていますが、詳しくは上本さんの既刊「分析化学における測定値の正しい取り扱い方」(日刊工業新聞社、2011)を参照するように書かれている箇所が多いです。この章を目当てに読むなら、「分析化学における測定値の正しい取り扱い方」を読む方が早いのではないかと思いました。

二つめは、前提となっている分析対象が主に無機物で、分析手法はICPや原子吸光だということです。そのため、特に前処理の章では環境分析や食品分析や医薬品分析などとは違いがあります。

 まとめ
以上ご紹介したとおり、この本には、単なる解説でない、ベテランの先輩から経験談や雑談を聞きながら教えてもらう雰囲気があります。また、化学分析を長くやってきた人にも、楽しく情報の整理ができる本だと思います。

【うんちくクイズの答え】

① 懐中時計のガラス蓋に形状が似ているから
② ベンチュリー効果
③ 空気中の酸素と窒素の吸着速度の差を利用した分離精製

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2024.07.09

分析技術で一人起業(8)起業して良かったことと今後の展望

安藤さんが設立された 株式会社 食品検査・研究機構(firo)についてご紹介してきたシリーズは今回が最終回です。起業して良かったこと、今後の展望などお聞きしました。

超臨界流体クロマトグラフ(SFC)と安藤さん Firo23

 起業して良かったこと
安定な公務員の職を辞しての起業ですが、官から民への変化については非常に満足しておられる様子でした。公務員は仕事を選べませんが、独立後は自分の判断で仕事を即断即決できるのでストレスが無いそうです。また、共同出資でなく一人の起業ですが、これも気が楽だそうです。
firoでは農薬分析以外の仕事も受注しています。それらは単発で多様な依頼で、香り成分、うまみ成分、機能性成分などさまざまな分析がからむ仕事です。手間がかかる割にあまり収益には結びつかないようですが、未知のものを探求する面白さがあるようです。これらを受けるかどうか自分で判断できるのは、確かにやりがいに結びつきそうだと感じました。

 次にやりたいこと
会社の残留農薬分析法は順調に稼働しているので、SFCの価値を示す学術的な活動が次にやりたいことの一つだそうです。具体的には、o,p’-DDTはGC/MSによる分析の際に注入口で一部がo,p’-DDDやo,p’-DDEに変化するので、SFCでの解決に取り組んでいるそうです。o,p’-DDT がLC/MSではイオン化せずSFC/MSではイオン化する現象を発見していて、今後はこのメカニズムの解明と分析条件の最適化を行い、「SFC/MSでしかできない分析」を一例でも多く確立したいそうです。
また経営面では、輸出用農産物の産地増加をめざしており、各地の生産者を訪ねて輸出のメリットやノウハウを伝えたいとのことです。

o,p’-DDTの構造式(Wikipediaより) Firo22

 会社の将来
安藤さんは7年後に70歳で引退するつもりで、適当な時期に若手の事業継承者を探して、まずは社員になってもらいたいそうです。ラボの場所は次代経営者が自由に決めれば良いとのことです。
firoの現状のビジネスは台湾の市場動向や検疫の姿勢に大きく依存しています。政治的・地政学的リスクは気になるところです。現在の台湾政権は相手国によらず公正で厳しい検疫をしていますが、もし日本に対して好意的でない政権に変われば公正が保たれるかどうかわかりません。すべてのビジネスと同様、firoのビジネスにもリスクがあります。
いっぽうで、安藤さんが最初の一年で全国行脚してニッチ(すき間)を見つけたように、目に見えていないニーズはそこここに隠れているはずです。今後の安藤さんも次の社長さんも、小回りの良さを生かしてチャンスを発見していかれることでしょう。

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2024.07.08

分析技術で一人起業(7)宮崎という土地

firoの所在地は宮崎県宮崎市です。この地で起業した意味についても安藤さんにお伺いしました。

Firo18

 地理的に隔絶されている?宮崎県
私は本州以外に住んだことがなくて、九州の地理がよくわかっていません。宮崎県と鹿児島県は隣どうしだから人の往来も活発だろうくらいの認識でした。しかし宮崎市と鹿児島市の間はJRの特急で2時間かかるそうです。別の隣県は大分県ですが、宮崎市と大分市の間は特急で3時間だそうです。私にとっての隣県とは、岐阜市と名古屋市とか京都市と大阪市とか、通勤圏内というイメージなので、これは尺度が違うと思いました。
しかも九州新幹線が福岡―熊本―鹿児島と開通したので、宮崎県は取り残され気味、飛行機でダイレクトに結ばれている東京や大阪の方が行きやすいそうです。
(2) で紹介したとおり関東から宮崎へ検体が届くまでに2泊3日かかります。これは全国展開を考えたとき不利でしょう。

 ビジネスにベストな土地は?
宮崎に設立した理由は、安藤さん自身が宮崎出身で、自宅というラボ用のスペースがあったからです。
「自由に立地を選べるとしたら、福岡あたりがちょうど良いと思う。不動産の賃料が高すぎず、交通の便が良く、輸出入港があり、四国の産品まで集まってくる」
と安藤さんは言われます。

 決め手になるのは「人」
それでも、宮崎でなければならない重要なポイントがあるそうです。それは、3名の従業員さんです。これらの方々は私の訪問日には在宅勤務をしておられたのでお会いできていませんが、ISO/IEC 17025と同等の信頼性確保体系をコツコツ構築するなど、能力と真面目さを備えた方々だそうです。
確かに、ラボスペースは借りることができますが、人とのめぐり逢いは代替不能だろうなと思います。
また、県内の大学から非常勤講師や共同研究のオファーがあったほか、市内の高校からはグローバル人材育成プログラムの運営指導員の委嘱もあり、地元で若手研究者の育成に携われることも大きな要因だったようです。

 宮崎の名所
宮崎と言えば新婚旅行先やスポーツのキャンプ地などとしても知られており、名所が多いです。今回、安藤さんに案内していただいて日南海岸を見渡す堀切峠、海に面した断崖の洞窟にある鵜戸神宮、日露戦争の講和条約を結んだ小村寿太郎の生家を訪問しました。梅雨のさなかですが天気に恵まれて幸いでした。地鶏や冷や汁、新しい名物「カツオ炙り重」もおいしかったです。写真を載せておきます。


冒頭の写真:堀切峠から日南海岸を望む
直線の縞模様「砂岩泥岩互層」が海岸線近くに見られます。これが何キロも続いていました。

海に面した断崖の洞窟にある鵜戸神宮
日本神話の山幸彦の息子で神武天皇のお父さん「うがやふきあえずのみこと」をお祀りしています。

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小村寿太郎の生家
日露戦争の講和条約を結んだ偉人です。戦争を終わらせた方を本当に尊敬します。

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日南市の新しい名物「カツオ炙り重」
炭火付きで供されて、各自であぶりながらいただきます。日南市は一本釣りカツオ漁獲量が日本一だそうです。カツオといえば高知県しか知りませんでした。

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2024.07.07

分析技術で一人起業(6)経営者として

世間では「スタートアップ」の語が流行し、若い人であっても起業はまれなことでなくなってきました。とはいえ、高額な分析機器を備える会社を起こして維持するのは簡単ではないでしょう。firoの経営面についてお聞きしました。

 資金調達
firoは株式会社で、資本金は800万円。これはすべて安藤さんによる出資だそうです。株主総会は議長も株主も社長も安藤さんという、一人三役で成立。これを報告する一人株式会社用の様式があるとのことです。
分析機器の購入には各種補助金を申請して充当しているそうです。ものづくり補助金(中小企業庁)、農産物の輸出促進補助金(農水省)などがあるそうです。補助金で支給されるのは購入額の3分の2で、残りの3分の1は会社負担ですが、これは銀行からのローン(5年)でまかないます。分析機器は5年で簿価はゼロになりますが、状態が良ければ5年後以降も使えるので、ローンが終われば利益が生まれるようになるとのことです。

 人材確保
firoの社員は正規1名、パートタイム2名です。信頼性確保や法令対応、多岐にわたる消耗品を切らさない経理事務など、正規社員である秘書がしっかりした方で、きちんとやっておられるそうです。なお、この秘書さんも社長の安藤さんも分析実務をされます。決算、納税、社会保険、労務管理、法令届出などもすべて自分たちで しているそうです。一人何役もこなしている感じです。

大豆なども粉末にできる強力な粉砕機は、容器だけで1個50万円だそうで、この容器が10個もありました。合計500万円。しかし少人数で検体を迅速に処理するためには器具の個数がけっこうポイントになるので、そこにお金をかけるのはうなずけました。

強力な粉砕機
右のスロットにセットされているのが1個50万円の容器
Firo17

 設立時の模索から軌道に乗るまで
設立から今年5月で5年経過したfiro。事業がまわるようになるまでには模索の期間がありました。安藤さんが公務員時代に開発した技術は全て前職に残してきて、会社では0から構築しようと決意し、前職の顧客以外を新規開拓するという営業方針を立て、 最初の1年は全国行脚して農薬分析の方法やニーズを探したそうです。その結果2年目からは 分析技術で一人起業(4) で紹介したとおりの分析法を確立し、受注を増やしてきたとのことです。

 他の人に勧めますか?
政府も積極的な起業を勧める昨今ですが、他の人に勧めますか?と安藤さんにおききしました。答えは
「手持ちのお金が2000万円あればやってもいいのでは?」
でした。3~5年で消える起業家が多いですが、これは生活できなくなるからだそうです。5年くらい生活できる資金が必要で、安藤さんの場合は前職の退職金があったそうです。

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2024.07.06

分析技術で一人起業(5)信頼性確保・法令対応・ラボ管理

前回までfiroのラボと分析法をご紹介してきましたが、分析会社といえば分析そのもの以外にも信頼性確保や各種法令対応に膨大な書類仕事やラボ管理業務が必要です。このあたりをどのようにしておられるのかお聞きしました。

アマゾン川原産の淡水魚ディスカス(Wikipediaより) Firo14

 独自の信頼性確保
標準作業手順書(SOP)整備や試験データ保存などいっさいをISO/IEC 17025と同等に行っているそうです。大学の化学分析に詳しい先生に監査員に就任していただいており、年に2回の監査を受け、その指摘に基づいてPDCAサイクルを回しているとのことです。また、産業技術総合研究所の外部精度管理に参加していて、2023年には、成績が良好だったとして技能試験フォローアップセミナーで講師を依頼されたそうです。
firoは登録検査機関ではありませんから当然GLPには対応していません。ISO/IEC 17025の認証も取得していません。それで大丈夫なの?と思いますが、仮に将来必要になればISO認証を取るし、現在でも求められれば査察並みのチェックに対応可能だそうです。
このような発想にはこれまで出会ったことがなく、目からうろこだと思いました。

 試験法の妥当性確認
分析の品質管理実務で特にたいへんなのは試験法の妥当性確認(バリデーション)ですが、検査する農産物を9品目に絞ることで負担を抑えているそうです。台湾に輸出する農産物に特化しているため、品目数が少なくても不都合がありません。ブランク値の確認には庭の無農薬レモンを使うそうです。標準溶液は林純薬工業の混合標準溶液を使用しており、ロットが変わったら新旧の比較をすることで濃度の一貫性を確認しているそうです。

Firo04

 法令対応、設備面
シリーズ(1) でご紹介したドラフト替わりのレンジフードですが、宮崎労働基準監督署に確認したところ、使用する有機溶媒の量からみて有機溶剤中毒予防規則の適用除外と判断され、レンジフードで可と言われたそうです。また、有機溶剤使用者の健診も対象外と言われたそうです。
24時間365日の分析対応については、安藤さんは被雇用者でないため、労働基準法に違反しません。
廃棄物に関しては、試験操作の中で有機溶媒を加える工程以降はすべて使い捨てデバイスを使用しており、使用後は産廃業者に引き渡します。SFCに使うCO2は、2016年から高圧ガス保安法の規制対象外になりました。特定毒物研究者の許可も受けています。
設備面では、窒素発生機の騒音対策として静音ボックスを使用、また、分析機器を置くリビングの床は1トン/m2の荷重に耐える補強がされているとのこと。これはかつて趣味でディスカスという大きな熱帯魚(冒頭の写真)を飼う水槽を設置していたからだそうです。床に関しては普通の民家より高スペックのようです。

 民家のフローリングに7m3ボンベを設置?
エックス(旧twitter)で「ガスボンベを室内まで運ぶの大変そう」とのコメントをいただきました。言われてみれば、民家には「上がりかまち」があり、台車を通過させられません。それに、ボンベを転がしたらフローリングに傷がつきます。急きょ安藤さんにメールでお聞きしました。

Firo15
Firo16

ガスボンベの搬入口はリビングにある勝手口で、ここには屋外から小さな3段の階段があるそうです。ガス屋さんは1段ずつボンベを持ち上げて納品し、あとは安藤さんが転がして設置するそうです。床は「WPC檜」というプラスチック強化檜材で、見た目は木目のフローリングなのに表面は硬度が高く、ボンベを転がしても傷がつかないそうです。
耐荷重だけでなく表面強度も高スペックな床なんですね。

ところで「ボンベを転がす」は、実際にやったことがある人でないとイメージできないと思いますが、ボンベを立てたまま少し斜めに傾けて底面のへりの一部だけが床に接するようにしてゴロゴロ転がしていく移動法です。
傾ける角度が小さければ女性でも比較的簡単にできますが、間違えて傾けすぎてしまうと重量が一気に増して支えきれなくなり、倒れてしまう危険性があります。それを再び起こすのはたいへんです。
斜めにしたら、ごく小さな接地面にボンベの重量がぜんぶかかりますが、これで傷がつかないとは、すごい床です。

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2024.07.05

分析技術で一人起業(4)SFCを活用する農薬分析法

では、即日分析結果が出るfiroの農薬分析法がどんなものかご紹介します。

 分析法の概要
全体の手順はざっと次のとおりです。

試料をドライアイスと共に粉砕 → QuEChERS法で抽出 → 膜精製キットで精製 → 機器分析(SFC/TOF-MS、LC/TOF-MS、GC/MS/MS)

膜精製キットを使っていること、濃縮工程が無いこと、SFC(超臨界流体クロマトグラフィー)をメインに使うことが特徴だと思います。
膜精製キットとは、三浦環境科学研究所の SPEEDIA という製品で、膜ろ過と固相抽出が組み合わされています。通液は遠心分離で行い、多数検体の同時処理が可能です。
濃縮工程を要しないのは分析装置が高感度、高選択性だからです。この方法によって、6検体を約1時間で前処理することができます。

前処理工程ごとの試料液の外観(検体:イチゴ)
左からQuEChERS後、膜ろ過後、固相抽出後
Firo12_change

 SFCを使うメリット
firoのTOF-MSにはSFCとLCが接続されていて切り替えが可能で、基本的にSFCを使い、LCは補助的な使用だそうです。残留農薬分析でSFCを使うところは珍しく、通常はLCメインだと思います。
安藤さんによれば、SFCの方が分析できる物質が幅広く、きれいに分離するそうです。LCの移動相は粘性が高くて分析対象物がカラム固定相の微細孔に入りにくいのに対し、SFCの移動相である超臨界流体状態のCO2は微細孔に入り込んで相互作用がより強く働き、ピークがシャープになるそうです。また、質量分析計のイオン化においても、LCでは移動相の水の気化にエネルギーを使うが、SFCはCO2なのでそのようなことがなく、イオン化効率が高いため感度は3倍程度に上がるとのことです。

ただ、私個人はSFCをあまり使っていませんが、私が分析したことのある物質ではLCの方がよく分離でき、SFCは分離が良くないと感じました。また、LCとSFCはそれぞれ別の質量分析計に接続していたので、感度の比較はできませんでした。

 標準添加回収検量線
firoの農薬分析法は検量線用の溶液調製にも特徴があります。それは、農薬の標準溶液を分析の最初の段階で試料に添加し、前処理のすべての段階を反映させた検量線を描くことです。具体的には5段階の濃度添加+無添加の合計6ランを同時に試験操作します。この方法は血中薬物濃度の測定などでは行われていますが、多品目の試料を扱い試験工程も長い農薬分析ではほとんど行われていません。しかし、理論的に最も正確に定量できる方法です。これを可能にしているのが、シンプルで迅速な前処理工程です。

SFCとLCを切り替えて接続可能なTOF-MS
左からLC、SFC、質量分析計
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TOF-MSのフライトチューブの首にかかっているのは、農薬残留分析研究会ポスター発表最優秀賞のメダルです。

Firo13

2025/12/19
試料液の精製工程の写真は検討用の別の試料のものが一部入っていたとのことで、安藤さんから正しい試料液の写真をいただき、差し替えました。

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