質量分析ユーザーの間で「整数質量」の語は普通に使われていると思いますが、実はあまり認められていなくて使いにくい、という話をします。しかし最後にすばらしい文献をご紹介しますから、時間がない方は最後だけ読んでください。もっと時間がない方はこの表だけどうぞ。
分子の例として、いま分析業界が対応に大わらわの物質PFASの一つPFOAを考えてみましょう。化学式はC8HF15O2で、天然存在度が最大の同位体ばかりの組合せの分子なら精密質量は413.9737 Da(小数点以下4桁まで表す場合)、これに対して整数質量は414 Da。つまり「精密質量」の対句のように使われるのが「整数質量」というのが私の認識です。
■ IUPACと質量分析学会の用語集には無い
「整数質量」の語は、日本質量分析学会の「マススペクトロメトリー関係用語集第4版」には収載されていません。第3版にも収載されていませんでした。
「精密質量」の方は収載されています。「測定精密質量」と「計算精密質量」が定義されています。
この用語集が主に依拠している IUPACの用語集 にも「整数質量」に相当する語は見当たりません。
それではPFOAの414 Daという質量を、この用語集ではどう表現すればよいのでしょうか?
別途「質量数」の語が「原子,分子,またはイオンを構成する陽子と中性子の数の合計」と定義されていますから、「PFOAの質量数は414」と表現できます。「414」であって「414 Da」でないことに注意が必要です。質量数は無次元量です。
しかし、質量数は原子に対して使う言葉ではないでしょうか。私は「整数質量」と似た意味で分子やイオンについて「〇〇の質量数は400」などと表現された実例を見たことがありません。
■ 「ノミナル質量」という言葉
「マススペクトロメトリー関係用語集第4版」には「ノミナル質量」も定義されています。「各元素の天然存在度が最大の同位体の質量に最も近い整数値を用いて計算したイオンまたは分子の質量」です。「PFOAのノミナル質量は414 Da」と表現できます。
それなら「ノミナル質量」の語さえあれば良くて「整数質量」は不要ではないか、と考えてしまいそうですが、PFOAの分析でサロゲートとして使われる13C8-PFOAはどうでしょうか?
この物質は8個のCがすべて13Cなので、整数で表した質量は422 Daです。しかし13Cは「天然存在度が最大の同位体」でありませんから、「ノミナル質量」の定義に当てはまりません。「13C8-PFOAの整数質量は422 Da」と表現するしかないのではないでしょうか?
サロゲートの場合だけでなく、PFOAの炭素原子の一つまたは二つが13Cになっている415 Daや416 Daの分子由来のイオンは質量分析で常時観測されますが、これらも「ノミナル質量」ではないわけで、「整数質量」の語が必要ではないでしょうか?
さらに、極めて大きな分子ではノミナル質量でなくノミナル質量より1大きいイオンが最大ピークになりますが、これも「整数質量」と呼べなければ不便ではないでしょうか?
■ JISではどうなっている?
「JIS K 0214:2013 分析化学用語(クロマトグラフィー部門)」には「整数質量」の語があります。しかしなんと、「ノミナル質量=整数質量」という定義です。これはJIS K 0214だけが採用している独特の定義ではないかと思います。
「JIS K 0136:2015 LC/MS通則」には定義はありませんが、分解能の説明をしているところに
「分析種イオンと整数質量が同じで精密質量が異なるイオンを」
と書かれています。これは天然存在度最大の同位体のみで構成されたイオンに限った記述ではないので、シンプルに整数で表した質量を意味していると解釈できます。
「JIS K 0123:2018 GC/MS通則」と「JIS K 0215:2016 分析化学用語(分析機器部門)」には「整数質量」の語はありません。
■ 書籍では?
「これならわかるマススペクトロメトリー」(2001)のp.51には次のように書かれています。
「整数質量:分子を構成する原子の質量数の総和.精密質量などの小数点以下を四捨五入や切り捨てした値ではないことに注意する.」
これは質量分析学会用語集の「質量数」と同じ意味で、無次元なので、「質量」と呼んで良いのか疑問です。
「ガスクロ自由自在Q&A GC/MS編」(2024)のp.11、質量分析計によるスペクトルの違いを説明したところに
「観測できるイオンの質量が整数質量か小数点以下を有する精密質量か」
とあります。天然存在度最大の同位体か否かは関係なく、シンプルに整数で表した質量を意味していると解釈できます。
「LC/MS、LC/MS/MSにおけるスペクトル解析」(2020)も確認しましたが、「整数質量」の語はありませんでした。
ここまでの調査で、私が考える「整数質量」の意味と同じ使いかたをしているのはJIS K 0136と「ガスクロ自由自在Q&A GC/MS編」だけでした。しかしどちらも用例であって、定義が書かれているわけではありません。
最後にたどり着いたのが日本分析化学会(編)「分析化学用語辞典」(2011)。実は私はこの辞典をあまり参照したことがなくて、一応持っているという感じだったのですが、これにすばらしい定義が書かれていました。全文を引用します。
整数質量 セイスウシツリョウ integer mass〔電磁気分析〕質量の計算値もしくは測定値の小数点以下を四捨五入して表記したもの.日本語の整数質量は「ノミナル質量(nominal mass)」を指すこともあるが,ある程度の高分子化合物ではinteger massとnominal massの値が異なることもあるので,整数質量をノミナル質量の同義語として使用することは好ましくない.
我が意を得たりです!JIS K 0214がおかしいことまできちんと指摘している。これが載っているだけで、8500円(税別)の本代を払ってよかったと思ったくらいです。
■ 私の本ではどう書いたか
「図解入門 よくわかる最新分析化学の基本と仕組み」の第2版では、「これならわかるマススペクトロメトリー」の定義に基づき、本文では「分子を構成する原子の質量数を合計したものを整数質量と呼びます。」と書くいっぽうで、図解ページでは「単位 Da」としていて矛盾がありました。
第3版では「分析化学用語辞典」に基づいて本文に
「分子やイオンの質量をDaで表して整数で近似したものを整数質量と呼びます。」
と書き、図解ページも記述を一致させました。
ちょっと自慢を書くと、「Daで表して」と書いたところが「分析化学用語辞典」よりも厳密になっています。質量の単位としてはグラムの方が普通だからです。第2版執筆時(2016)には「分析化学用語辞典」に行き着いていなかったので自慢できませんが…。
以上、「整数質量」の語についてはこのように長い説明があるので、第2版から第3版への変更点(PDF, 452kB)には書ききれませんでした。それでブログ記事にしました。
(注)この記事ではPFOAの分子について書きましたが、LC/MSで通常検出されるのはH+がはずれた陰イオンです。また、精密質量については電子の質量を考慮する必要があります。
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