ネットでどこまで信用されたいか
自分がネット上で提供している知識や表現している人格をどこまで信用してもらいたいか考えてみる。そして、その程度信用してもらうためにはどんな方法を採るのがいいかも考えてみる。
酔うぞさんが インターネットで発信者の信用をどう確保するか? で述べられたとおり、「インターネットという一つのバケツの中にあまりに違う情報の入れすぎなのではないか?」と感じている人は多いかもしれない。公的機関や大企業が開設しているページも個人の日記やおしゃべりも、ネットバンキング等の財産に関わる情報も、同じネット内で流通している。フィッシング詐欺のようなことも起きる。
しかし、いろいろなものが混在していて危なっかしいのは、別にネットだけではない・・・というのも、誰でも考えるところだろう。高い殺傷能力のある自動車が個人で所有できて歩行者と同じ道を走り回っているし、満員電車には痴漢もいるし様々な感染症の媒介スペースになっている。ごちゃ混ぜバケツはいたるところにある。それでもまあまあ平穏に世の中が動いていくのは、便利さと比べればこの程度のリスクは仕方ないという「社会的合意」があり、問題が起これば「ルール」が追加されていくからだ。
ただ、インターネットは、発展と普及があまりに急速なために、既存のバケツよりも社会的合意やルール作りが遅れがちなのは確かだ。
そういう発展途上・交通整理が遅れがちなネットの中で、ある程度の信用を得たい情報発信者はどうしたらいいか?個人の場合はネットバンキングほど信用が必要なわけではないが、それでも個々の事情に応じて、「信用してほしいレベル」が存在する。
私は、
(1)提供する情報内容をある程度区分けする。
(2)区分けしたそれぞれについて、信用してもらいたい分だけ信頼性向上のための努力をする。
(3)期待するほど信用してもらえなくても、それ以上の努力ができないなら諦める。
という方法を採っている。
具体的には、本館 で提供している専門情報は、私なりの最高の信頼を得たいので、元文献を示したり自分の経歴を公開したり、できる限りのことをしている。これに対して、このブログで書いたいくつかの体験談(1、2、3、4)は、話として聞いてもらえれば十分で、書いた以上の情報を求められても答えるつもりはない。答えるリスクのほうが、信用してもらえない不都合よりも私にとって大きいからだ。
ネットは確かにごちゃ混ぜバケツだけど、参加している一人一人の意志で、自分の力の及ぶ範囲内の整理整頓をすることはできる。別の参加者の意識に働きかけることもできる。たとえば「匿名情報など信用できない」「匿名での発言はマナーが悪い」と一律に片付ける意見が幅をきかせそうな場合には、固定ハンドルネームの人たちは反論したほうがいいと思う。ルール作りが遅れがちなインターネットの世界では、そういう個々の参加主体による世論の力はかなり大きいような気がする。
その一方で、自分の身の安全確保やもろもろの事情から十分なことができず、期待するほどの信用が得られない場合には、いさぎよく諦めるのも精神衛生上よいと思う。
酔うぞさんの記事以外の参考リンク
● バカはサイレンで騒ぎ、インターネット利用者は激減する!?
● インターネットが怖くてトラックバックが出来るか!
「週刊!木村剛」より。木村さんは、御自身のビジネスにもネットを最大限生かそうと考えておられるようなので、匿名発言も含むネット情報全般ができるだけ信用される方向を意図した記事が多い。最初の記事に対する続編記事の受けはごく自然。
● ”別人格”の理由
「d-mate weblog」より。前回記事で引用した 自サイトで書く の続き。日常生活でも、場面場面でちょっと(または大きく)違う自分を演じるのはよくあることで、それぞれをどうコントロールするか、という考察。
リンクだけしてトラックバックしないのは失礼だったでしょうか。前回分もトラックバックしておきます。
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