ネットな人

2004.07.23

井亀あおい「アルゴノオト」より

 私にとって「書く」という行為の原点になっている本から、重要な部分を紹介。
 この著者は1977年に17歳で自ら命を絶った。死後、12冊のノートにびっしり書き込まれた「アルゴノオト」と題する日記が見つかった。(アルゴノオトとは、ギリシャ神話にあるアルゴ号---金羊毛を探すため航海に出た船---の乗組員のこと。)
 句読点も誤字も一切改変せずに出版されているが、驚くほど文脈が整っており、ミスが少ない。「著者は、創作類はむろんのこと日記においてもいささかの曖昧さをも残さぬ厳密な書き手であった。」(本の編集者)
 この人が今のブログ全盛時代に生きていたら、絶対違う人生を歩んでいたろうなと思う。

以下引用
「アルゴノオト あおいの日記」(葦書房 昭和54年刊)
 1976年8月31日付けより(著者16歳)
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 火事になって家具はもう助からぬと分っても私は、アルゴノオトだけは持って出るだろう。私はこのノオトをなくしてしまったらどうするべきか見当がつかないのだ。というよりは、このノオトが自分そのものであると思えて、それをなくした時自分は存在しないのだという気がする。中学二年の秋、あの絶望への入口にあって私は、家に帰ればノオトに向かえると思いつつ登校したのだ。当時も現在も、それ程重大なことを書いている訳ではない。だがこれがあるからこそ、過去に私が存在し、現在もそれと同一人物が存在するということを確実に受けとめられる。さらに過去の想い出というものとそれに対する自分を思い起すことが出来る。口に出して言えば気が晴れるようなことを言えずにいる時、書くということは少なくともその労力にみあった価値がある。アルゴノオトがなければ、金羊毛を探すにも探せぬ。このノオトは、無言の船員たちである。手ごたえがないのは止むを得ぬ。だが確かに聞いてはいてくれるのだ。書くということは常に私にとっての救いである。書くということがなければ私は波に翻弄され、金羊毛のことすら忘れはてるだろう。アルゴノオト、すなわちアルゴ号の船員達は、私の知らぬ間に私を良い方へと運んでくれるのだ。アルゴノオトがなければ私の成長?は有り得ぬし、かつての酷い状態から脱出出来なかったろうしもっと悪くもなり得たのだ。最初の頃もし書き始めていなければ、この方向には来ずに「サブ・カルチャー」の悪い方へと行っただろう。
 私には書くということが一等身近である。読むことはその裏がえしなのだ。私から本と鉛筆を取り上げてしまったらあとには何も残らない。単なる外形だけだ。読むことと書くことの中においてのみ私は真実に自分の存在を知るのだ。

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2004.07.07

「インターネット世代」をかいま見た?

 自分ではかなり ネットな人 だと思っているけれど、先週、「やっぱり私は旧世代のネット人かも・・・」と感じるできごとがあった。
 なぜか驚くほどのページビュー(PV)があって、28日と29日のPVは、 BlogPeople の「昨日のリスト配信ランク」で表示されるほどだった。とても一般受けするはずがない専門情報ページのおまけサイトが、4万5千以上の登録ブログ中で20位まで表示のランキングに入るとは、不思議な現象だ。(順位は両日とも9位だった。)

どんなところからリンクされた?
 ここまでのことがあると、何が起こったのか知りたくなる。このブログ自体はアクセス解析をしていないが、本館のログでリンク元を見たら、ネットで実名を名乗るための危機管理 から多数来訪があったことが判明した。さては、どこかのメジャーなサイトで、この記事をネタにして何か過激なことを書かれたに違いない・・・と思った。
 でも何しろアクセスログがないから、記事名でGoogle検索 をかけて一つ一つ見て回るという労力をかけなければならなかった。なんと、リンク元は40サイトほどある。ほとんどがブログのようだ。

記事タイトルだけが並んでいるブログ
 ところが、探しても探しても、どこにも「過激なこと」は書かれていない。それどころか、記事内容の紹介も感想も書かずにタイトルのみ書いているページが圧倒的に多い。
 私の記事だけでなく、いろいろなサイトの記事へのリンクが、注釈抜きまたは1行程度の感想とともにずらーっと並んでいる。こういうスタイルのブログがこれほど多く存在するとは知らなかった。

 日付けをたどってみると、最初にリンクしたのは 日々、思ったままに書き殴る。(6/25) らしい。ここはオリジナルの文章が中心のブログで、記事に関連した管理者独自の考えが述べられている。
 2日後の日付けで十数ブログがリンクを付けた。その中で、重要なノードの役割をしたらしきところ(他サイトから情報元として書かれている)のは、駄文にゅうす(6/27)カトゆー家断絶(6/27)私たんニュース(6/27) あたりのようだ。
 その後も3日間にわたって、リンクを付けたブログが十いくつか。

「リンクonlyブログ群」の影響力
 正直に言うと、他サイトへのリンクだけ並べるブログを書いていくのがなぜ面白いのか、私にはよくわからない。(すみません。)
 ちょうど鈴木 聡さんが いかにして「他と違う情報を発信する」ことを促すかが重要なのでは(7/3) で、日本のWebにおける日記的コンテンツについて、「ただ他のサイトの情報を紹介するのみで,独自のコンテンツを発信できていない」を問題点として考察している。
 先々週までの私なら、たぶん何となくうなずきながら読んでしまったけれど、これだけ数の力にさらされると、そう言ってしまっていいのかと思えてくる。
 今までにもかなりメジャーなところからリンクされたことが何回かあるが、今回のPV数は桁違いだった。もっとも、「リンクonlyブログ群」のオーナーの皆さんは、きっと面白いネタを探しまわっている人たちだから、訪問者数は実はそれほどでなく、一人で何ページも移動してPV回数を増加させたのかもしれない。だから、「リンクonlyブログ群」が初めて開拓したサイトで高いPV数が記録されても、二回目以降はそれほどでなくなるのかもしれない。
 それにしても、あっというまに40ものサイトからリンクされるのだから、この影響力も大きいと思う。

新しいネット世代
 で、最初の話、こういうことが起こって、なぜ私は「旧世代のネット人」だと感じたのか。前に 「ネット世代論」を「匿名性」とスッパリ切り離してみる の中で、ネット人を判別する指標として次の3点を挙げた。

 A.あなたは、空いた時間があればとりあえずネットに接続していますか?
 B.あなたは、ほぼ習慣的に「次にupすること」「いつかupすること」を探していますか?
 C.あなたは、ネット内での自分の位置や他人からの評価が気になりますか?

 この中のBは、「リンクonlyブログ群」のオーナーたちの感覚とは多分ちがっている。勝手な想像だが、オーナーたちは、一日のうちかなり長い時間をPCの前で過ごし、ネットの海の中で情報を探し続けているのではないか。「次にupすること」「いつかupすること」ではなく、「今upすること」を探しているのだ。
 私(旧世代)の感覚としては、ネットで表現したいものはあくまで自分自身の中にあり、見つけてからおもむろにPCに向かっている。「リンクonlyブログ群」のオーナーたちは、ネットの膨大な情報をフィルタリングする行為自体が自己表現であるかのように見える。
 ちょうど、梅田望夫さんのブログで 消えゆくマスマーケットとミレニアルズ世代 が公開された。これはネットをする・しないとは関係なく、若い世代を「ミレニアルズ世代」として特徴づける話。

 (1) 浴びている情報量が圧倒的に多い
 (2) マルチタスキングが当たり前である
 (3) 情報を人と同時にあるいは人よりも早く得ることに強いモチベーションがある

 「リンクonlyブログ群」も、似た特徴を持っているように見える。
 こういう世代の出現をいいとか悪いとか価値判断するつもりは全然ない。こういう世代が多数派になっていくのなら、どうやって私の訴えたいことを伝えたらいいだろうかと考える。
 私が訴えたいこととは、分析化学の仕事に興味を持ってもらって、あわよくばこの道に進んでもらうことだ。とりあえず、私の本館ページは専門家向けで読みにくいから、秋月ナルさんの日記(環境分析、現役)または クロやんさんのページ(地方衛生研究所、OB)をのぞいてみていただければ、うれしいです。(と今ごろ言っても、もう遅い。)

2004/7/8 追記
 トラックバックいただいた記事 個人ニュースサイトの一般的価値と個人的価値 によれば、「リンクonlyブログ群」は「個人ニュースサイト」と呼ばれているらしい。

参考リンク
 ABCが苦手でも...作ろう英語サイト より、ブログ普及以前のサイト作成がどんな感じだったか伝わってくる文章をご紹介。(どちらも長文。)

相互リンクを成功させる方法
 メールを出して自分のサイトにリンクしてもらう際の頼みかた。
 相手が人気サイトで、アクセスが多ければ・・・「リンクさせてください」
 相手の歴史が浅く、カウンターも低ければ・・・「相互リンクしませんか」
 一つのリンクにこれだけ気を使った頃(つい最近)もあったという話。

リンク縦横無尽
 他人のサイトにリンクを張るのは、自分のサイトのページランクを流出させるようなもの。自分のページどうしのリンクを縦横無尽に張ろう・・・HTML手書きでこれをやると、本当に内職的な手間がかかる。ブログなら、何も考えなくても全ページのサイドバーが自動的に更新されて自サイト内リンクが瞬時に構築される。ブログのありがたさをしみじみ感じる一昔前(つい最近)の話。

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2004.07.03

「なぜウェブログを書き続けるのか」モデル

 科学に「将来予測」を期待する の記事で、三浦麻子さんの 「人はなぜウェブ日記/ウェブログを書き続けるのか」 に関連して私の希望を書いたところ、コメント欄 に三浦さん御本人からのお返事をいただきました。私自身は日頃トラックバックには基本的に反応していないので、たいへんうれしく、また恐縮しています。しかも、ただの素人の勝手な期待に対して、専門家として極めて誠実に答えていただきました。はい、心理学の守備範囲でないところまでは望みませんが、今後の展開に期待させていただきます。

 三浦さんの発表資料に対しては、三中信宏さんも 6月30日付け7月1日付け でコメントを書かれています。
 「なぜウェブログを書き続けるのか」モデルが提案されれば、それだけで価値があるとのこと。「現状解釈ではなく将来予測を社会心理学に期待」する私は「期待し過ぎ」ですか。まあ、blogで研究内容を公開したら、一般人からの素朴な期待も疑問も出てくるわけで。私のblogでは、評論家的な態度は排除して、できるだけ具体的な方法を書くようにしていますから、ああいう内容になりました。
 一般論として科学に将来予測だけを期待しているわけではないです。知が深まること自体の価値とか、法則の美しさとか、まあ、並べるまでもないですね。

 ところで心理学というのは、一般人から「占い」的なものを期待されてしまうことが多いような印象を持っています。どんな専門分野に対しても多少は一般人からの偏見があるでしょうが(化学分析に対してもあると思う)、心理学は、はた目から見ても、専門家がトホホと思うことが多そうな気がします。(これも偏見かも。)

 それからですね、ネットで 科学論の議論 は、サラリーマンにとっては鬼門ですね。実はけっこうのめり込むほうですが、世間体が許しません。私はあくまで、個別具体的な方法論のみ話して行きます。

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2004.06.30

科学に「将来予測」を期待する

 心理学研究者の 勝谷紀子さん 経由で、 「人はなぜウェブ日記/ウェブログを書き続けるのか」発表資料 (神戸学院大学人文学部人間心理学科 三浦麻子さん)を読む。
 「はてなダイアリー」利用者へのアンケートや、御自身のウェブ日記・ウェブログ公開体験を基に、ウェブログと従来のウェブ日記との異同などを考察した内容。

 私が勝手にタイトルから期待したものとは違っていた。
 「既にウェブログをやっている人たちが、どんな心の動きでそれを続けているのか」の分析。ウェブログについて語るウェブログは非常に多いわけで、あちこちで見かける自ブログ・他ブログ観察レポートのような内容が、単語や図に集約されていると感じた。(そういうことをするのが心理学というものなのかもしれない。「つぶやき」を客観的に見えるものに・・・)

 勝手にタイトルから期待したのはどんな内容か、書いておく。心理学に期待すべきことなのかどうかもわからないが。

 私が自然科学・社会科学全般に対して最も期待しているのは、「将来予測」に役立って、生き方の指針を示してくれること。
 だから、「ウェブ日記/ウェブログを書き続ける」という行為が、今後もっとメジャーになっていくのか、それとも少数の人たちの特殊な趣味に限定されたままなのかを知りたい。たとえば、ウェブログを書く人と書かない人の意識や行動上の特徴を分析して、今後ウェブログを書くようになる人が世代ごとにどの程度の絶対数で潜在しているのかといった考察をした研究ならば、非常に興味がある。
 梅田望夫さんの インターネット世代論 は、マーケティングの立場から、直感的かつ大胆に将来予測した話だ。
 私は企業家でも投資家でもないが、自分の余暇時間をネットでの情報発信に使うことが将来的にもマイナーな行為にとどまるのか、それとも、もっと参加者が増えて社会的認知度も高まっていくのかを知りたい。コミュニケーションというのは他者あってこそなので、参加人数がこのままなのか増えるのかは、現在の力の入れ方に大きく影響する。
 梅田さんの説を裏付ける学問的なデータが出てきたらたいへん面白い。

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2004.06.26

「ネットな人」仮説

 これはまったく見当はずれな思い違いかもしれないし、あるいは逆に、ネットコミュニケーション論の専門家にとっては自明のことだったりするかもしれない。ネット歴長めの一ユーザーとしての限られた経験から、感じたままを書いてみる。
 もとは梅田望夫さんの インターネット世代論 から考え始めたことだが、だんだんと私の自説の部分が大きくなった。

 「ネットな人仮説」と名付けてみようか。「ネット人仮説」でもよい。
 1.世の中には、ネットへの親和性が高い人と、そうでない人がいるようだ。
 2.ネットへの親和性の高さは、先天的な要素と後天的な要素で決まるらしい。先天的に資質を持つ人たちが後天的にネット体験を積むと、ネット人になるらしい。
 3.ネット人の行動原理は、「ネットで自分を表現したい」という根源的な欲求。

 「ネットな人」の特徴や生態については、過去記事 123 にあれこれ書いたし、梅田さんの記事やそのリンク先にも描写されている。

 この仮説を認めるとしたら、どんなことが導かれるか。
 「ネットな人」本人にとっては、自分の行動原理を知ることで、自分の行動をよりうまく制御できるようになるかもしれない。「うまく」というのは、自分の深い部分での価値観や長期的な利害と合致するように、ということ。「あとで後悔しないように」とも言える。食欲や性欲や物欲や名誉欲や独占欲を制御するように、「ネットで表現したい欲求」を制御する。

 自己を表現する方法は、ネット以外にいくらでもある。おしゃべりやファッションやスポーツや舞踏や音楽や模型製作などなど。それらに充当することもできる時間や労力をネットに向ける人たちは、別の表現方法よりもネットでの表現というスタイルが合っているのだろう。
 でも、インターネット上での表現は、音楽やファッションによる表現と比べたら、格段にリスクが大きい。自分がそういうリスクと引き換えに表現欲求を満たしていると認識すれば、「別の表現方法に振り向けたほうがいい部分もあるのでは?」とか「表現する場の公開/非公開の比率はこれでいいか?」とか「実名・匿名、どちらを選ぶか?」とか、「どうせ表現するなら、よりよい表現をしたい。どうすればいい?」とか、考えやすくなる。
 それから、世の中の多数派は、自分のような行動原理では動いていないと認識できる。ネットの世界にいると、ネットな人ばかり世の中にいるような錯覚に陥ってしまうけれど、そんなことはない。
 あとは、梅田さんのように、若い世代ほど「ネットな人」の比率は高まり、いずれ無視できない勢力になると予測してマーケティングに生かす・・・というのもある。
 ただ、私の直感でしかないけれど、ネットな人の存在確率はそんなに高くなくて、今後めいっぱい顕在化したとしても、全人口の1割よりは少ないと思う。サイレントな1割でなく表現する1割だから、これでもすごい影響力を持ちそうだけど。(ネットな人が全員インターネットに出てくるわけでなく、たぶん非公開のコミュニティでネット人になる人が多い。)

トラックバック先
インターネットコミュニティは「村」段階(Unforgettable Days)
 インターネットコミュニティが進化・発展していくという観点から、現時点でどのへんか、という分析をされています。

自由に意見を述べられる場の限界(philosophical)
 上記記事へのコメント。Shinさん、お引越し、おめでとうございます。(新築お祝いみたいな感覚で。)

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2004.06.12

ウェブで語る目的論

 ついに目的論へ来てしまったな・・・と自省中。私が「ネット世代論」に強く共鳴したのは、「なぜウェブで語っているのか」について一つの回答を示してくれたからだ。

 はっきり言って、他人の「目的」にはあまり関心がない。他人の「方法」は参考になるが、「目的」を詮索しても、当面役に立たない可能性が強い。私は実利主義だ。
 だから、自分の「目的」も話したくない。別にどうでもいいでしょ。ここでは、小心なサラリーマン専門家が、自分の専門分野について、できれば実名で語るための「方法」について書いている。
 というのが、続「世間体」を気にかけながら書く あたりで示した私の立場だった。

 でも、このさい目的について書いてみる。今まで書いてきた方法論も、必要ない人には全然役に立たなかったが、目的論は、もっともっと役に立たないと思う。

 私がインターネットで語りたいのは、この世界を、現実の世界とは別の価値を持つ独立した世界ととらえていて、その中で「生活」したいからなのだ。これが「ネット世代論」が教えてくれることだ。

 正直に打ち明けると、私は自分のPCを購入した1988年頃から、ほとんど途切れることなく「ネットの世界」に暮らしている。草の根ネット、ニフティサーブのフォーラム、2人から100人未満までの各種メールグループなど、そのときどきの関心や条件に応じて場は変遷したが、ずっとどこかの世界に住んでいた。
 なぜそういう行動になるのかは、自分でもよくわからない。リアルの私は、よくしゃべるほうだ。言いたいことを言えないようなタイプではない。でも、しゃべることと書くこととどちらが得意かときかれれば、書くことだ。何も書かない日が続くと欲求不満になる。こんな私にとって、ネットの世界は居心地がよい。
 「ネット世代論」を読んで、「要するにおまえはこの世界に居たいから居るんだろ」と言い当てられたような気がした。まったくそのとおりで、自分のネット活動に色々な意義付けらしきことを試みてはいるが、大もとになっているのは、この世界に心地よく居続けたい、そのために、少しだけ他人に認められたい、という気持ちだ。(「少しだけ」が肝心。目立ってしまうと、組織に雇われている私は居づらくなる。)

 三中さんも 「踏み絵」全部 Yes ですか。三中さんのような立場では、ウェブでの情報発信がリアルの実益につながる部分も少なくないでしょう。「匿名」のフィルターを使わない「踏み絵」では、このリアルの実益分を差し引かなければならないので、観測誤差が出ますね。でも、私が拝見するに、三中さんはまさしく実益分以上にしっかりとネットの世界に住んでいる方のように思えます。

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2004.06.10

「ネット世代論」を「匿名性」とスッパリ切り離してみる

 梅田さんの インターネット世代論 は、ネットが絡む色々な事件や現象を解き明かすのに役立ちそうだと思う。その際、「匿名性」とは意識して切り離してしまうのがいいのではないか?と考えてみた。

 「インターネットといえば匿名性」な感じの議論が多い。最近の例を挙げれば、木村剛さんの サイバーワールドとリアルワールドの戦いが始まる(日経BizPlus)があるし、小学6年生の女の子が同級生を殺害した事件に絡んでも、「ネットの匿名性」を問題にする意見をよく見かける。

 私は、「ネットの世界」の本質を説明するのに匿名性は不可欠でないと思う。だから、たとえば社内LANでも「ネットな人」は出現しうるし、最小単位、つまり、2人だけによる密なメールのやり取りにおいてさえ、「ネットの世界」は形成されうると思う。(実際、私はそういう世界に3年ほど居続けたことがある。)
 逆に大きいほうへ想像を働かせれば、インターネットの世界から完全に匿名性が抹消されたとしても、「ネットの世界」の本質は変わらないと思う。(もちろん、匿名性がもたらしている特質が非常に大きいことも論を待たないが。)

媒体に情報がプールされる仕組み
 リアル世界から一応独立した媒体に、いったん(あるいは継続的に)情報がプールされる仕組み。こういうものを自分の生活空間として入り込み、その世界での人格を形成できるのが「ネット世代」ではないか。
 その際、構成員どうしのリアル世界での接触の有無、立場の違い、好き嫌いなどは、もちろんネット世界での人間関係に影響する。しかし、毎日顔を合わせる間柄であってさえ、リアルの関係とネットでの関係は同じものにならない。いや、同じものにしようと極力努力するのは「ネット以前の世代」と言える。そういう世代は、ネットの世界でもリアルの制約に縛られた必要最小限の発言しかしない(できない)。よって、ネットの世界で遊ぼうとか生活の場にしようとか、つまり、ネットをリアル世界と別の価値を持つ空間として理解しない。

 情報がいったんプールされる仕組みは、ネット以前からも「サークルノート」「理科室の机の落書き」などの形で存在した。でも「生活空間」と認識できるほどになるには、頻繁にアクセスできることや情報入力に手間がかからないことなどが必要で、そういう環境は近年になって急速に普及した。

 こういう媒体を介すると、なぜ「もう一つの世界」が出現してしまうのか。私はコミュニケーション論の専門家でもなんでもないが、「自分の言いたいことを最後まで言える」のが最も大きいと思う。リアルの会話では、言いたいことを全て言える場面はあまりない。途中でさえぎられたり、相手の顔色を見たり、ちゃんと聞いてもらえなかったり、色々な理由で発言は中断される。(あるいは、そもそも発言できない。)そして、発言の受け手にとっては、「相手の発言に途中で文句をはさめず、全部受け取らされる」ことになる。
 たったこれだけの違いだが、人間どうしの関係に決定的な違いをもたらすように見える。

「もう一つの世界」がある・続くという信頼
 で、私は、「インターネット世代」でなく「ネット世代」と呼んでおくほうがしっくり来るような気がする。もちろんインターネットはキング・オブ・ザ・ネットで、他のネットとは比べようもない影響力を持つものではあるけれど。
 それから、「ネットの向こうの不特定膨大多数への信頼」とは、第一に「この世界が永続すること、自分と同じくらい真剣にこの世界で生活している他者がいることへの信頼」ではないかと思う。嘘つきよりは本当のことを教えてくれる人のほうが多いとか、親切な人も意外に多いといった信頼感、あるいはここで生きる自分のリテラシーへの信頼感は、この世界の存在を受け入れる過程で身についていくものではないか。

 付録として、「デジモノに埋もれる日々」の記事 私たちがネットを通して見ているもの・築いていくもの の向こうを張って、匿名性と切り離した「ネット人」の踏み絵を考えてみた。(匿名性をキーにした踏み絵のほうがわかりやすいとは思う。リアルの影響を排除したネット世界の価値を各人がどう捉えているか、純粋系で知るには、匿名という方法しかないから。)

 A.あなたは、空いた時間があればとりあえずネットに接続していますか?
 B.あなたは、ほぼ習慣的に「次にupすること」「いつかupすること」を探していますか?
 C.あなたは、ネット内での自分の位置や他人からの評価が気になりますか?

 私は全部「Yes」です。

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2004.06.06

「こちら側」と「あちら側」

 実名を名乗って、いかにもリアルの自分と同期した活動をしているかのように見える(見えない?)私にとっても、やっぱりネットはパラレルワールドだ。今こうして書いている私はネットの世界「こちら側」にいるし、実生活を「あちら側」として、何やら離れたところにあると感じている。

 梅田望夫さん「英語で読むITトレンド」 で、先月 ネット世代とPC世代を分ける「インターネットの隠れた本質」 がupされ、それに対するトラックバックを受けて、インターネット世代論・再び が一昨日付けでupされた。
 思いっきり単純化だが、Echoo! のトラックバック大会の最新テーマ ネットの自分 というところに行き着くのかな・・・と考える。「ネットの自分」「ネットの他人」「ネットという世界」に、どれだけ存在感を感じられるか。真剣に対峙できるか。

 梅田さんが提示しているのは、物心ついた頃からネットが生活に溶け込んでいた「インターネット世代」と、それ以前の「PC世代」の間には、感覚的な隔絶があるのでは、ということらしい。どんな違いかというと、「ネットの向こうに存在する不特定膨大多数への信頼の有無」であり、

ネットの向こうに存在する千万単位、億単位の見知らぬ人々(有象無象)やその知やリソースを、当たり前の存在として心から信頼できるのが「インターネット世代」、頭では仮にわかっても心からは信頼できないのが「PC世代」。

とのことだ。トラックバック元では、Programmer's Eye「インターネットを生活の場としてとらえる事ができるかどうか」デジモノに埋もれる日々「ネット上の対人関係に価値を見出せるかどうか」などとも表現されている。

 ハンドルネームを使うのをやめ、実名で専門分野に関する個人サイトを立ち上げた当初、これで私のリアル世界とネット世界はつながったと思っていた。でもだんだんと、そうでもないと思うようになった。
 期待していたほどリアル知り合いからの反応はないし、心配していたほど新旧の勤務先からの反応も(全く)ない。ただ、アクセス数や見知らぬ同業者からのメールは期待以上に多い。
 そして、当初予想していなかったことに、専門分野がまるで違う多彩な人たちとの、ネット上のみでの交流が広がった。そういう人たちとリアル世界で関わりあう事態はまず考えられないし、たぶんこれからも「こちら側」だけでのお付き合いが続くのだろう。
 この意味で、実名の人であっても、私にとってはネットの住人だ。
(ただ、先方は先方でリアル世界と接点があり、私は私でリアル世界とつながっている。このリアルどうしは同じ世界だから、互いが望めばすぐにでも「あちら側」で会えるんだなという親近感はある。それと、ハンドルネームの人は、いつでも「こちら側」で消滅して、また新しい名前で生まれ変わってくるという機会を留保している。実名の人は、少なくとも実名で生まれ変わってくることはないだろう。)

 これを、このblogの主題「サラリーマン専門家がウェブで自分の専門分野を語るための方法論」として考えると、こういうことになる。実名で専門サイトを立ち上げて、リアル世界での評価(プラスにしろマイナスにしろ)を期待してもたぶん期待はずれになりますよ。「あちら側」では、ネット住人が思うほど「こちら側」に価値を置いている人は多くない。ネットの世界だけで完結する価値を何か見出さなければ
 IT関連以外では、同業者のみで「ネットな人たち」仲間を十分集めるのは、まだまだ難しいのが現状ではないか。梅田さんが言われるように「インターネット世代」が育っているならば、期待してしまうけれど。

 で、あらためて 分析化学に携わるみなさんへ:サイト開設のお誘い を呼びかけます。

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