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2025.03.19

全イオン検出(TIM)という言葉(GC/MS, LC/MS)

全イオン検出または全イオンモニタリング(TIM, total ion monitoring)という言葉があります。私は選択イオンモニタリング(SIM)の対語として「スキャン測定」と同じ意味で使ってきました。ところが日本質量分析学会の「マススペクトロメトリー関係用語集第4版」には意外な意味が書かれていて驚いた、という話を書きます。

 MS学会用語集の「TIM」はスペクトルを取得しない
気づいたきっかけは、本の原稿を査読してくれた方からの
「TIMはスペクトル測定を意味しない」
という指摘でした。
「え?そうなんですか?」
あわてて質量分析学会の用語集を開くと次のように書かれていました。

total ion monitoring (TIM)
全イオンモニタリング:選択イオンモニタリング (selected ion monitoring) に対比される語で,液体クロマトグラフィー質量分析やガスクロマトグラフィー質量分析などにおいて,マススペクトルを取得する代わりに,検出されたすべてのイオン,もしくは特定の広い m/z の範囲のイオンの検出器応答値の総和を連続的に記録するように質量分析計を動作させること.

正直なところ戸惑いました。「マススペクトルを取得する代わりに」ということは、マススペクトルを取得しないということで、毎秒何枚ものマススペクトルを取得するスキャン測定とは別物です。
では何をモニターするかといえばイオンの検出器応答値の「総和」です。このような測定法があるのでしょうか? 私は、m/zで分離したイオンごとに測定する方法しかやったことがありません。
いやいや、実は、m/zで分離したイオンごとに測定したうえで、画面上の表示だけを総和で示すということなのでは?と思ってよく読んでも、はっきり「質量分析計を動作させること」とありますから、画面だけの話ではないようです。

 そういえば「TICC」の語も
これと似た話は、TICかTICCか でも書きました。IUPAC勧告も関連JISもTICCを「データから再構成したクロマトグラム」としているところ、MS学会用語集第4版だけ「全イオンモニター(total ion monitor),あるいはビームモニター (beam monitor) と呼ばれる特別な電極を設けて測定したm/z分離が行われる直前のイオン電流値」と定義しています。そして、このような測定は数十年前に行われていたことが J.H. Gross「マススペクトロメトリー 原書3版(日本版)」に書かれています。(無料サンプルページ p.672)

MS学会用語集の特殊な「TIM」の定義づけは、TICCの定義に出てくるtotal ion monitorという古い測定装置と整合性を持たせているのかもしれません。

 他の文献はどうなっている?
MS学会用語集に書かれている意味は現代では実用性がないと思いますが、査読者の指摘は重みがありますから、他の文献でどうなっているか調べました。

まず、この用語集が主に準拠している IUPAC勧告(2013) にTIMの語はありません。学会独自に立項したと考えられます。

JISはどうなのか。
「JIS K 0123:2018 GC/MS通則」の附属書Eでは、SIMに対する語として全イオンモニタリング(TIM)の語を使い、これはスペクトルを採取する測定を意味しています。

「JIS K 0136:2015 LC/MS通則」にも「全イオンモニタリング」の語があり、スペクトルを採取する測定を意味しています。こちらの方にはTIMの略語はありません。

「JIS K 0214:2013 分析化学用語(クロマトグラフィー部門)」には「全イオンモニタリング, 全イオン検出」の項があり、「GC/MS, LC/MSなどでイオン源で生じた全イオン,又は特定範囲のm/zのイオンを積算して連続的にモニタリングする方法」と書かれています。マススペクトルを取得するということか、MS学会用語集のようにマススペクトルを取らないということか、あいまいです。

日本分析化学会(編)「分析化学用語辞典」(2011)にも「全イオン検出」の項があり、JIS K 0214とほぼ同じ文言です。

「ガスクロ自由自在」も併せて表にするとこうなります。

Tim

 「スキャン」はTOFやFTでは非推奨
ところで、GC/MSやLC/MSのユーザーなら
「わざわざTIMなんて言葉を使わなくても、スキャンでいいのでは?」
と考えるかもしれません。

再びMS学会用語集から引用しますが、「スキャン」の項はこうなっています。

scan
走査またはスキャン:マススペクトルなどを測定するため磁場や電場の強さなどを一方向へ連続的に変化させること.
注:マススペクトルを取得する際このような操作を行わない飛行時間型質量分析計やフーリエ変換質量分析計を用いる場合もスキャン (scan) と表現されることがあるが,推奨されない.

つまり、TOFやフーリエ変換型(オービトラップなど)については「スキャン」の語が推奨されないのです。解説書では全部の質量分離方式に通用する語を使ってデータ処理法を説明する必要があるため、TOFやオービトラップにも使える「スキャン」相当の語が必要になるわけです。
とはいえ、MSユーザーの間で「TIM」の語はあまり使われておらず、「スキャン」の方が一般的ではあります。J.H.Gross "Mass Spectrometry ― A Textbook, 3rd ed"(無料PDF, 25 MB)では普通にscanning mode の語を使用しており、TIMの語はありません。(p.848-849)

 私の本にはどう書いたか
上記の調査を踏まえて、「図解入門 よくわかる最新分析化学の基本と仕組み 第3版」では第2版の記述と同様、JISのGC/MS通則及びLC/MS通則と同じ用法のままにしました。また、脚注でスキャンの語はTOFなどには「用いない」としていたところ、「非推奨」に表現をゆるめました。

「TIM」の語については以上の長い説明を 第2版から第3版への変更点(PDF, 452kB)に書ききれず、このようにブログ記事にしました。

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