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December 2023

2023.12.03

TICかTICCか(GC/MSやLC/MSの用語)

この文章は長くなる見込みです。しかもくどくどしています。そこで、最初に結論を書きます。
「TICでもTICCでも良い。でもTICの方が短いから私は好き。」
結論だけ必要な方は、ここで読むのをやめてください。
なお、それぞれの語は次の語の略語です。
 TIC : total ion chromatogram
 (全イオンクロマトグラム)
 TICC : total ion current chromatogram
 (全イオン電流クロマトグラム)

1.TICとTICC 推奨状況の現状
国際純正・応用化学連合(IUPAC)は 2013年の勧告 でTICを非推奨、TICCを推奨としています。日本質量分析学会の「マススペクトロメトリー関係用語集(第4版)」はTIC、TICCとも認めていますが、後で述べるようにTICCの意味を限定していますので、一般的なユーザーにとっては実質的にTICが推奨語と思われます。
日本産業規格(JIS)の3つの規格
 JIS K 0214:2013 分析化学用語(クロマトグラフィー部門)
 JIS K 0123:2018 ガスクロマトグラフィー質量分析通則
 JIS K 0136:2015 高速液体クロマトグラフィー質量分析通則
はいずれもTICCのみを使用しており、TICの語を使っていません。
装置メーカーの対応は分かれており、分析画面やプリントアウトで表示される名称はTICの場合もTICCの場合もあります。

2.TICでなくTICCが推奨される根拠
日本質量分析学会の学会誌に2007年に掲載された解説「目から鱗のマススペクトロメトリー 第12回「Total Ion Chromatogram」と「TIC」∼「TIC」はトータルイオンクロマトグラムではありません∼」の内容を要約して紹介します。既にこの文章を読んだことがある方は3へ進んでください。

もともとTICの語はクロマトグラムを表すものでなく、「total ion current(全イオン電流)」の略語であったとのことです。そして、全イオン電流を保持時間に対してプロットしたクロマトグラムは「TIC chromatogram」と呼ばれます。「TIC chromatogram」を略さずに書けば
 total ion current chromatogram
すなわち「TICC」となります。それがなぜ「TIC」とも呼ばれるようになったのか。この解説では2つの説を述べています。
 説1 total ion current chromatogramからcurrentが欠落した。
 説2 TICのCがchromatogramのCであると誤解された。
いずれにしても、TICではイオンの何の数値を合わせたものか不明(電流値、質量などがあり得る)という理由から、TICCが正しく、TICは誤っていると書かれています。

3.IUPAC勧告の定義
TICCの項目はこのようになっています。

531. total ion current chromatogram (TICC)
   reconstructed total ion current chromatogram

Deprecated: total ion chromatogram.
Chromatogram created by plotting the total ion current in a series of mass spectra recorded as a function of retention time.
total ion chromatogramの略語としての「TIC」については明確に非推奨です。また、「reconstructed」つまり再構築されたものであることを示す語を並列で置いています。これがあることで、次に述べる日本質量分析学会の定義との違いが際立ちます。
なお、全イオン電流の意味での「TIC」は次の定義です。
530. total ion current (TIC)
Obsolete: after mass analysis, before mass analysis
Sum of all the separate ion currents carried by the ions of different m/z contributing to a complete mass spectrum or in a specified m/z range of a mass spectrum.
「質量分析前のTIC、質量分析後のTICといった表現は使われなくなった」と書かれています。この説明もまた、日本質量分析学会の定義との違いを際立たせます。

4.日本質量分析学会の定義
「マススペクトロメトリー関係用語集(第4版)」のTICとTICCの項目はこのようになっています。TICには2通りの意味があるとの立場です。

total ion chromatogram (TIC)
全イオンクロマトグラムまたはトータルイオンクロマトグラム:ガスクロマトグラフィー質量分析や液体クロマトグラフィー質量分析などにおいて,取得したマススペクトルの全体もしくは特定の広い m/z の範囲におけるイオンの検出器応答値の合計値をクロマトグラフィーの保持時間に対してプロットしたクロマトグラム.
注:略語 TIC を用いる場合は同じ略語が使用される全イオン電流 (total ion current: TIC) と混同されないよう留意する必要がある.

total ion current (TIC)
全イオン電流:ガスクロマトグラフィー質量分析などにおいて,質量分析装置に全イオンモニター(total ion monitor),あるいはビームモニター (beam monitor) と呼ばれる特別な電極を設けて測定した m/z 分離が行われる直前のイオン電流値.
注:略語 TIC を用いる場合は同じ略語が使用される全イオンクロマトグラムまたはトータルイオンクロマトグラム (total ion chromatogram: TIC) と混同されないよう留意する必要がある.

total ion current chromatogram (TICC)
全イオン電流クロマトグラム:ガスクロマトグラフィー質量分析などにおいて,全イオン電流値を保持時間に対してプロットしたクロマトグラム.

この定義にはびっくりするポイントが2つあります。
一つは、IUPAC勧告で非推奨とされているクロマトグラムの意味の「TIC」が非推奨でないこと。この用語集はIUPAC勧告準拠が基本方針なのに、異例です。もう一つは、「TICC」の意味が極めて限定的で、通常のGC/MSやLC/MSで出力されるクロマトグラムには使えず、実質的に「TIC」を推奨していると解釈できることです。

日本質量分析学会の「TICC」の意味が限定的とはどういうことか説明すると、電流のほうの「TIC」を「全イオンモニターあるいはビームモニターと呼ばれる特別な電極を設けて測定した m/z 分離が行われる直前のイオン電流値」と定義しているからです。
普通のGC/MSやLC/MSのユーザーにとっては、全イオンのクロマトグラムと言えば、マススペクトルに表れている各m/zのイオンの信号を総和してプロットしたものでしょう。「m/z 分離が行われる直前のイオン電流値」をプロットしているとは考えないし、私の知る限り、装置はそのような仕様になっていないと思います。
また、3で書いたとおりIUPAC勧告では「質量分析前のTIC、質量分析後のTICといった表現は使われなくなった」と述べているのですから、第4版で新たにこのように定義した理由がまったくわかりません。(用語集第3版では、TICは質量分離後に合計したものという意味になっていました。)

第4版が出た2020年以降、私はこの転換にモヤモヤしていましたが、一会員には情報が入りません。学会誌では追補版が出ていますが、そこでも説明されていません。
ところが最近、
「質量分析学会が翻訳しているGrossの教科書と関係があるかもしれない」
と聞きました。そこでその教科書を確認してみました。

5.Grossの教科書
その教科書とは J.H. Gross「マススペクトロメトリー 原書3版(日本版)」です。この教科書ではTICについてどのように書かれているのでしょうか。
冒頭に略語集があり、次のとおり3つが並んでいます。

TIC total ion chromatogram;  全イオンクロマトグラム;
   total ion current  全イオン電流
TICC total ion current chromatogram 全イオン電流クロマトグラム
いずれも非推奨でありません。一見、質量分析学会の定義に似ているように思われます。しかし、total ion currentの意味が異なっています。p.672にこのように書かれています。
 数十年前は全イオン電流(total ion current : TIC)が,質量分析に先立ってハードウェアTICモニター(hardware TIC monitor)で測定されていた(nA~µAの範囲).今日では,それに相当するものが質量分析後に再構成(reconstructed)または抽出(extracted)される.
これを素直に読めば、質量分析学会は数十年前に使われていたTIC(全イオン電流)の意味をわざわざ復活させて2020年発行の用語集に載せたことになります。Grossの解説は、IUPACの勧告にある「質量分析前のTIC、質量分析後のTICといった表現は使われなくなった」とも整合します。

ところで、Grossはクロマトグラムの意味ではTICとTICC、どちらの略語を推奨しているのでしょうか?その答えは実に明解で合理的です。p.673の表には、TICとTICCの他にRTIC(再構成全イオンクロマトグラム)とRTICC(再構成全イオン電流クロマトグラム)も挙げた上で、コメントとして次のように書かれています。

測定時間,保持時間,またはスキャン数に対して,マススペクトルあたりのピーク強度の総和をプロットしたもの.実際にはこれらはほとんど同じ意味で使用される.ここでは最も単純な語であるTICが推奨される.

6.結局どちらを使えばいいのか?
以上、各資料の記述をまとめると下の表のようになります。質量分析学会用語集第3版はIUPAC勧告と同じ定義でした。日本産業規格は1に挙げた3つの規格の状況ですが、いずれも学会用語集第3版に準拠しており、TICCの語だけを使用しています。

Ticticc

私は用語で迷った時にはできるだけ「最大公約数」を採用するようにしています。どの定義にも反しないように語を選ぶのです。学会用語集第3版までは、「TICC」を使っておけば「非推奨」に引っかかることはありませんでした。
しかし用語集第4版では、「TICC」の定義は極めて特殊な内容になりました。現在のGC/MSやLC/MSではほとんど使われない測定技術によるクロマトグラムが「TICC」であるとの定義になりました。

これはフルネームtotal ion current chromatogramを書けば解決するという問題ではありません。total ion current chromatogramの定義自体が変わってしまったからです。普通のクロマトグラムをTICCと呼びたければ、「質量分離後に再構成されたクロマトグラム」といった説明が必要になります。

いったいどうすればいいのか頭を抱えてしまいますが、Grossに習うのがストレスが少なそうだと思います。Grossの「マススペクトロメトリー」は、商品名だとして非推奨にされがちなDARTやOrbitrapの語も商品名とことわった上で使っています。TICもTICCもRTICもRTICCも紹介した上で、一番単純なTICがいいんじゃないのと言っています。実用性重視だと思います。
「TIC」の語はIUPAC勧告では非推奨、JISでは不掲載ですが、total ion chromatogramの略であることをちゃんと書いておけば、少なくとも誤解は生じません。逆に「TICC」を使った場合、学会用語集第4版に基づいて解釈されたら変な意味になってしまいます。

というわけで、冒頭に書いたとおり
「TICでもTICCでも良い。でもTICの方が短いから私は好き。」
というのが私の立場です。どちらの使用例を見てもいちゃもんはつけません。自分自身は好みで選びます。

2023/12/5 追記
J.H.Grossの教科書「マススペクトロメトリー」は税込み21,560円と高額ですが、TIC推奨部分を含むサンプルページのPDFが無料で公開されています。(p.673の表)
第14章サンプルページ

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