よく似たテーマの本が2冊、相次いで化学同人から刊行された。どちらも良い内容だ。化学系の研究や分析をしていて類書を持っていない人は、ぜひどちらか(または両方)座右に置くことをお奨めする。
「実験データを正しく扱うために」化学同人編集部/ 出版:化学同人/ 発行年月:2007.12/ 税込価格:¥1,575 (本体:¥1,500)
「これならわかる 化学のための統計手法 正しいデータの扱い方」丹羽 誠/ 出版:化学同人/ 発行年月:2008.3/ 税込価格:¥2,730 (本体:¥2,600)
まず「実験データを正しく扱うために」について。
化学同人が発行しているあのおなじみのシリーズの新刊だ。「実験を安全に行うために」「続 実験を安全に行うために」「機器分析のてびき」1~3、「化学文献の調べ方」・・・長く化学に携わっている人なら1冊くらいは持っているのではないだろうか。小ぶりで低価格なのに中身の濃い、おトク感のある本が多い。
この本はまず物理量と国際単位系の解説から始まり、単位の記述のしかた、濃度の表し方など、初歩の初歩から懇切丁寧に書かれている。定規、ピペット、ビュレット、ノギス等の目盛りの読み方、ガラス体積計の正しい扱い方・・・学生実験や研究室で指導される内容ではあるが、こうしてハンディにまとめられて再確認できるのは便利だ。
そして次は、採取したデータの扱い方が具体的に解説される。有効数字の桁数を決める手順、繰り返し測定における平均や標準偏差について、誤差法則、検定と異常データの棄却法、最小二乗法による回帰、実験結果のグラフ化。
項目名だけ並べたら普通の統計の本と同じように見えるかもしれないが、化学に即した題材が取り上げられていてわかりやすい。例えば、低濃度の溶液を調製する場合、いきなり少量の試料を溶媒に溶かすのでなく、まず高濃度の溶液を調製して何段階かの希釈を行うほうが正確に調製できる理由。それから、吸光光度法において濃度に比例するのは吸光度であるが、直接測定される物理量は透過度であることから起こる問題(だから吸光度は0.2~0.8の範囲で測定すべきである)など。
これらも学生が指導されることだが、なぜそうなのかが数式で説明されて納得できる。同時に、誤差や回帰についての理解が深まる。
次に「これならわかる 化学のための統計手法 正しいデータの扱い方」について。
こちらはデータの採り方については書かれていない。統計のことだけが解説されている。一方、ページ数は多い。それだけ内容が濃い。
著者の丹羽さんは日本化薬の研究員で、丹羽誠の分析化学・薬物動態学ホームページ を開設している。
この本の特徴は、「分析をする人のための統計」を強く意識している点だろう。取り上げている項目は「実験データを正しく扱うために」とかなりオーバーラップしているが、試験室の分析能力をテストする技能試験で使われる統計や、産地特定や犯罪捜査での異同識別に応用される多変量解析の基礎など、分析化学分野に登場する統計は網羅していると思う。
それから、一つ一つの項目の解説が極めて丁寧だ。
およそ実験を始めたばかりの学生でも、繰り返し測定の標準偏差を求めること と 検量線を引くことにはすぐにでも直面する。
標準偏差の求め方について、「実験データを正しく扱うために」では、標本標準偏差と標準偏差を簡潔に解説している。母集団からN個の標本を取るとして、前者は各標本と標本平均の差の二乗の総和を「N」で割ったもの、後者は「N-1」で割ったものである。
しかし、この本の説明と例題だけを読んでNとN-1の使い分け方、なぜN-1で割るのか等が理解できる学生はあまりいないと思う。
「これならわかる 化学のための統計手法」には、Nで割るのは特殊な場合(工場における全数検査等)であること、同書の中ではN-1で割る方法のみ扱うこと、N-1で割る理由などが書かれていてよくわかる。
また、検量線について、「実験データを正しく扱うために」では「最小二乗法は、ほとんどの表計算ソフト・グラフソフトに標準的に組み込まれているので容易に計算できる」とした上で、解説のほとんどは重み付け回帰の方法になっている。
最近の学生実習では早い段階で重み付け回帰した検量線を引くのだろうか。私の学生の頃は方眼紙に定規を当ててプロットしていたから人間の感覚で自然に重み付けしていたとも言える。しかし、関数電卓やPC(当時は贅沢品だった)を使って最小二乗法による検量線を引いた学生も合格点をもらっていた。
「これならわかる 化学のための統計手法」では、まず5ページ使って最小二乗法による検量線の引き方を説明している。(なぜ横軸を濃度、縦軸をレスポンスにするか、逆にしたらどうなるかも実例付きで説明。)その後に、シンプルな最小二乗法の問題点、重み付け最小二乗法の必要性や具体的な手順が詳しく説明される。
その他の項目についても同様だ。「実験データを正しく扱うために」では科学的に最も妥当であると考えられる結論が簡潔に書かれているのに対し、「これならわかる 化学のための統計手法」ではやや不正確であるが実用的あるいは古くから繁用されてきた方法を一通り解説した後に、その限界を指摘してより正しい方法へと進むスタイルである(※注)。前者はハンディなマニュアル、後者はじっくり読む解説本であるから、この違いはそれぞれの出版目的に合っていると言えるだろう。
また、各著者の専門分野と立場も投影されているかもしれない。前者の著者は膜・界面・電気化学といった方面の研究者、後者の著者は医薬品開発という目的のもとでの生体試料中の薬物濃度分析の専門家。
対象物として前者のほうがより理論値に適合したデータが得やすいと思う。生体試料の組成は複雑であり、解釈が難しいデータが得られる場合も多い。また、研究目的の実験では科学的な厳密さが最優先であるが、データを得るための分析では、時間や費用との兼ね合いから目的に反しない範囲での妥協をする場合がある。医薬品業界はそのような基準整備が最も進んでいる分野である。
結論として、これらの本はそれぞれこんな人にお奨めする。
・単位や計測操作についてきっちり再確認したい。
・統計については既に一通り理解しているから、便利に参照できるコンパクトなマニュアルがほしい。
・逆に統計のことはほとんど知らないけれどとりあえず正しい手順を知りたい。
・自分の研究のための実験をしている。
→ 「実験データを正しく扱うために」
・きちんと統計の勉強をしたい。
・今まで統計の本を読んでも理解できなかった。
・分析を目的とする機関(または部署)に勤務している。
・特に環境・食品・医薬品業界の人にお奨め。(技能試験にまで言及した類書は非常に少ない。)
→ 「これならわかる 化学のための統計手法」
なお、丹羽さんと私とは、似たサイトを開設している縁で5年前にメールさせていただいて以来の知己です。そして「実験データを正しく扱うために」の執筆者の一人前田耕治さんとは、20年以上前に京大の宇治キャンパスで一緒に大きなクリスマスパーティを企画した仲間です。
偶然にもお二人が同じ時期に本を出されたことにちょっと感激しました。
(前田さんの共同執筆者 山本雅博さん、加納健司さんにも分析化学会近畿支部でお世話になっています。)
※注 この書き方だと「揺るぎなく正しい検量線の引き方」があるかのような誤解を与えるかもしれない。重み付け回帰にも色々なやり方があり、どんな場合にも適用できるような方法はない。これらの本で提示されているのは、現時点での状況(フリーの計算ソフトが簡単に入手できるようになった等の社会状況も含む)で使える、現実的でより正しい方法である。
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