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2007.08.25

「ニセ科学」関連・最終記事

この記事を読む前に必ず 「ニセ科学」関連・本当の最終記事 を読んでください。

「ニセ科学」を主題とする記事はこれで最後にします。将来分析化学会で何か動きがあればまた書くかもしれませんが。
これまでにいただいたコメントを踏まえて、この記事でできる限り私の立場を説明します。さらに何か疑問点があれば新しい記事は作成せずこの記事のコメント欄でお返事します。

 「ぶんせき」誌投稿への意見をブログに書いたことについて
もともとは私が、柘植さんの投稿への意見である 分析化学会は「ニセ科学」と向き合うか をブログに書いたことに端を発しています。このこと自体は不適切ではないと考えます。分析化学会は公開の掲示板を運用しており、そこに機関誌の内容への意見を書き込むことは問題ないでしょうし、別サイトに書いてリンクを張ることも問題ないと思います。
ただ、学会内だけに向けた文書か一般に公開したものかの区別をはっきりさせておくべきでした。形式は学会内向けでしたが、通常のブログの記事でもあると考えており、位置づけがあいまいでした。

 「懸念」の根拠の説明
私は上記記事で「一般の人が『ニセ科学』を一種のレッテル貼りと誤解する懸念」について述べました。そして「懸念」の根拠が何なのか説明することを迫られているのが今の状況と考えます。

菊池さんから「そのような意図はない。講演でもウェブサイトでもそのような方向性ははっきり否定している」と繰り返しコメントいただきました。
意図(理念)は私も十分納得しています。納得していることを繰り返し強調していただいてもこれ以上納得できないので話が進展しません。

 理念でなく現実の困難さ
これまでにも書いているつもりですが、私が懸念しているのは「ニセ科学批判という情報の送り手がどんな理念を持つか」ではなく「その情報が間違いなく受け手に伝わるか」です。

私が問題性を感じた理由 の中でも、柘植さんの文章をサンプルにして書きました。理念は良いのですが、実際の聴衆の反応とその反応をレポートする姿勢は、現実の困難さを示していると思います。
このような書き方は柘植さん個人を批判しているようで心苦しいですが、「レッテルを貼ってほしい」という一般の人からの熱い期待がある中、専門家としてその期待に応えることに注意が向いてしまうのは人間的に自然なように思います。

 懸念の根拠はウェブサイト群
私が問題性を感じた理由 では、柘植さんの文章はサンプルであり、「懸念」の本当の根拠は「菊池さんのウェブサイト及びそこからリンクされているいくつかのウェブサイト」だと書きました。
ウェブ上での活動は、産総研の一般公開と同様に、「その情報が間違いなく受け手に伝わるか」の試金石でもあるはずです。

これまでの説明で納得していただけないのでしたら、私がどんなウェブサイトを見てどこに懸念を感じるかをさらに詳しく書かなければなりません。それは全然気が進まないことですが、以下に最大限具体的に書きます。これ以上の説明はもうできません。

私が「現実の困難さ」を感じた材料は、菊池さんのウェブログよりもむしろ「ニセ科学批判」を展開するその他の掲示板やブログ群です。それと、菊池さんと柘植さんの氏名で検索すると出てくるページ群です。
内容的に、理念を説くものよりも個別の「ニセ科学」をめぐる論争(あるいは批判される側との確執)を多く目にしました。そして、書き手側の熱の入れ方や記事数の多さは、個別の論争や確執に関わるもののほうが理念的なものよりも勝っていると感じました。

「ニセ科学批判」によって営業的に不利益を受ける人たちが存在する限り、批判に対する大きな反発があるのは当然ですし、反発があればそれへの対応に労力を向けることになるのも自然だと思います。また、インターネットの性質上、論争には読者をひきつける強い力があります。そのような材料を「科学とは何か」を伝える目的に使うことの困難さを感じました。
「被害を防ぐ」目的というならわかります。営業的に不利益を与えるのがすなわち被害を減らすということですから。

 「ニセ科学」に問題がないとは考えていない
ここで明言しておきますが、私が個々の疑似科学的なものを疑似科学的だと考える基準は、多くのニセ科学批判サイトとほとんど同じだと思います。私が見た範囲では、批判されて当然なもののみ批判されていました。

問題なのは批判対象がピックアップされる手続きと考えます。批判されて当然なものが批判されるのはいいとして、批判されるべきなのに運良く対象にならないものが発生するのは不公平でしょう。
個人がボランティアでやっている段階では仕方ないかもしれませんが、多数の科学者の同調を得て進む場合、しかも「被害防止」でなく「科学の啓蒙」が目的であるなら、公平さが求められると思います。

 「ニセ科学」は蔓延しているか
話は変わりますが 田部勝也さんのコメント からは、環境ホルモン問題について深い造詣をお持ちということがよくわかります。私は 5分で伝授できる「ニセ科学」対策 のコメントで「一度だけ『ニセ科学(かもしれないもの)』に対抗してウェブ上で発言した経験があります」と書きました。これはDEHP規制に関して解説ページを作成したことを指していました。つまり私は、環境ホルモン問題自体が疑似科学的だったと思っています。

それはさておき、環境ホルモンとニセ科学の共通点をもう一つ見つけました。

(7) 根拠が確かでない危機感を述べる。

田部さんのコメントには「社会に『ニセ科学』が蔓延する実態とその病理」といった言葉が何回も出てきます。同様の記述は柘植さん、菊池さんのコメントにも見られます。

どうもニセ科学批判の根底に共通して流れているように見えるこの危機感は、どの程度データに裏付けられているのでしょうか?
年々疑似科学的な商品が増えているように見えるのは私も認めます。しかしこれは、例えば経済的な要因も大きくないでしょうか。物質的に充足されている現代日本では、商品の差別化が求められるために増えているにすぎないのかもしれません。また、人口の高齢化で健康不安を抱える人が増えたことや、購買力を持つ層が高年齢側にシフトしていることも要因かもしれません。

これらの要因を取り除いて解析しても、一般国民に「病理」と言えるほど科学的な態度の欠如が増えているのでしょうか?

「学力低下」でさえ基礎データ不足が云々されています。もっと検証しにくいと思われる「科学的な態度の欠如」をどうやって測定して「病理」とまで呼ぶのか、私は知りたいです。

 まとめ
現実の困難さは感じますが、菊池さんが「ニセ科学認定ではない」という意識を強く持っておられることはよくわかりました。このブログにコメント・トラックバックされた皆さんも同様とわかりました。こういうことが話題になるのは菊池さんたちのコミュニティでは何順目かだそうです。たいへんお手間をおかけしました。ニセ科学批判に出会ったとき、誰もが感じる疑問ということでしょうか。

私が書いたニセ科学関連の記事は分析化学会掲示板にURLを書き込んでおきます。学会員がニセ科学について掲示板経由で関心を持ったとき、最初に目にするのがこの一連の記事ということになります。その方たちには菊池さんたちの真意が伝わるものと思います。

最後の記事はこれで終わります。菊池さんとたまたま同じ枠で講演したことで、稀有な勉強の機会を持たせていただきました。どうもありがとうございました。

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Comments

なかなか興味深くまとめを拝見しました。

わたしは、機械屋であって学者ではないし学会にも基本的には無縁です。(情報ネットワーク法学会会員だけ)

わたしが関心を持ったニセ科学問題は、振り返ってみると、悪徳商法絡みで学習参考書にトンでもない記述のものが沢山ある、といったところからアプローチしたことになります。

このために教育問題ではニセ科学だけを問題にしているのではありません。
同様な手段も含めて「こんなのを教育現場に持ちこんじゃいけないだろう」とか「最低限これはやっておかないとダメだろう」というのが沢山あります。
広い意味での詐欺的な商品やビジネス展開の手段の一つとしてニセ科学があると見ていました。

「手段の一つ」なので、個々の問題を精密に検討するまでもなく「その手段は何を目的としているのか?」を考えればよい、という立場です。

ニセ科学と指摘されるような事柄が、特に世の中で何かの目的に使われず、もてはやされる事もないのなら、これは「思想の自由の範囲でのちょっと以上に奇妙な理論」といった枠組みの中でしょう。

と学会の主張は「バードウォッチャーです」だから、ここらへんに沿っているのでしょう。

「何らかの実害(のようなもの)」があり得るか?が一番の問題だと思います。

学校教育に入り込んでいる「科学的と称するヘンテコなもの」やカルト宗教系の詐欺的商法に良く登場する「科学的」といったものが、かなりの損害を生みだしていることは事実です。

個々の現実の問題に対して、ニセ科学だと批判し、科学全体をニセ科学と真正科学に分けるといった考え方は論外である、と一見して相反する立場を同時に取れば良いことだと思っています。

Posted by: 酔うぞ | 2007.08.25 at 10:28 AM

>津村さん。
三点だけ、あくまで私個人の見解という事を了承された上で、読まれる事を望みます。別のところに書きましたが、「ニセ科学批判者」という一つの人格があるわけでも、「一派」があるわけでもありませんから。

>批判されるべきなのに運良く対象にならないものが発生するのは不公平でしょう。
スピード違反が取り締まれなくなりますね。完璧を目指すと何もできません。問題意識を持った人が、それぞれ自分のできる範囲で、自分のできる事をしていけば良いのではないでしょうか。
シートベルト着用の義務化が今日のようにまで一般化するまでのいきさつはご存知かと思いますが、決して、公平に取り締まったから……というわけではないでしょう。

>(7) 根拠が確かでない危機感を述べる。
私にとって、科学的な態度の欠如が増えているのか減っているのかは、あまり興味がありません。悩ましく切実な(と私が感じる)問題が実際に今目の前にあるという事だけが重要なわけです。危機感の根拠は、現実に起きているニセ科学被害だけでも十分過ぎるくらいだと思います。その点で、被害が疑われるという段階での環境ホルモン問題とはまったく話が違います。
津村さんがおっしゃるような要因でそれが近年目立っているだけかも知れません。正直に言えば、他のより切実な問題が解決されていって、今ようやく、ニセ科学の蔓延までをも批判する余裕が生まれた──という印象を持つ人だって少なくないかも知れません。ただ、過去と比べて「科学的な態度の欠如」の度合いがどうであろうと、今現在その問題が十分解決されていないと感じたとき、放っておくわけにはいかないと考えるのは、不当ではないと思います。
なお、「優先順位問題」としてたびたび議論になりますが、「ニセ科学の蔓延はまだ大した問題ではない。もっと他に早急に取り組むべき問題がある」と思う人は、その人の優先順位に従って行動すれば良いわけです。その事を批判する気はありません。ただ、私には私の優先順位があるというだけの事です。

>内容的に、理念を説くものよりも個別の「ニセ科学」をめぐる論争(あるいは批判される側との確執)を多く目にしました。
私個人の経験では、個別の「ニセ科学」についての議論を深めていくなかで、より深い社会の病理に気づき、教えられる──という学び方でしか、この問題には気づけませんでした。もし、『kikulog』が個別の「ニセ科学」についての言及を最小限に努め、メタな理念の議論に終始していたら、少なくとも私は、これほど明瞭なニセ科学問題に対する認識をもつ事はなかったと思います。

Posted by: 田部勝也 | 2007.08.25 at 11:41 AM

>一般国民に「病理」と言えるほど科学的な態度の欠如が増えているのでしょうか?

私も同様の疑問を持っています。
テレビ番組で「まん延するニセ科学」が放送され、科学者に「ニセ科学がまん延している」という認識があるのは事実です。ですが、それが一体何の根拠に基づいた認識なのか、私にもよくわかりません。

仮にそのような傾向があったとしても、その原因を「科学的態度の欠如の増大」とするのも無理がある気がします。それよりも、管理人様がおっしゃるとおり、消費行動のあり方の変化や、時代の推移に伴う心的状態の変化(不安やストレスの増大)の要因が大きいと思います。

不安やストレスに付け込む「ニセ科学」が存在するとすればそれは問題ですが、だからといって「ニセ科学」を攻撃することは何の解決にもならないと思います。真の解決は、そのような不安をもたらす社会構造の改革によってこそ可能です。現在のニセ科学批判はこの意味で対症療法に止まっていると思います。それでは、真の解決はありえないでしょう。

Posted by: 虚無僧 | 2007.08.25 at 09:53 PM

酔うぞさんは被害者対策の面から「ニセ科学」に関わりを持たれたのですね。

学会機関誌での呼びかけも「被害防止活動としてニセ科学批判にコミットしましょう」ならわかりやすかったと思います。その呼びかけでは引いてしまう人が多いでしょうが、そのかわり、きちんと覚悟のできた少数の有志が集まるでしょう。

「科学の啓蒙としてニセ科学批判にコミットしましょう」と言われると、気軽に応じられそうな反面、のぞいてみると具体的なネット活動は被害防止活動と深く関わっているので驚くことになるかもしれません。私はそのパターンだったような気がします。

田部勝也さん、交通違反の取り締まりは公平ではありませんが、公的機関によって事務的に行われるから運と割り切ることができるでしょう。ニセ科学批判の対象の選定は、現状では個人がたまたま見つけたものとなっています。当事者にとって運と割り切りにくいと思います。

「病理」という言葉を使うからには、「人間社会の健常な状態があってそこから逸脱している」という意味でしょう。私の感覚では、もともと人間はそんなに科学的な考え方ばかりできないと思っています。現に今ニセ科学被害があるというだけなら、「病理」という深刻そうな言葉は使わないほうがいいと思います。

個別の問題の考察こそが理解を深める良い教材になることは納得できます。でも批判される当事者から見たら、「批判が教材」というのは腹が立つことだと思いませんか?

虚無僧さん、社会問題の解決法の話にまで言及すると議論が複雑になりますので、ニセ科学批判を他人にも勧めるほどの根拠となる「危機感」の裏付けデータがあるか無いかだけ問いたいと思います。

Posted by: ここの管理人 | 2007.08.25 at 11:21 PM

>ここの管理人さん「当事者にとって運と割り切りにくいと思います」
そうかも知れません。ただ、私は短い間ですが教員をしていて、「あいつもやってるのに」とか「あれはいいのか」とかみたいな言い分には多少うんざりしているところがあります。「それは悪い事だ・望ましい事ではない」という指摘に対する反論は、「そんな事はない」という観点からのみ受け付け、「本当に悪い事・望ましくない事なのか」といった議論にしないと、何も批判できなくなってしまいます。そのあとにようやく「優先順位問題」でしょう。

>ここの管理人さん「「病理」という言葉を使うからには、「人間社会の健常な状態があってそこから逸脱している」という意味でしょう。(中略)現に今ニセ科学被害があるというだけなら、「病理」という深刻そうな言葉は使わないほうがいいと思います」
「私が考える望ましい状態から大きく逸脱している」くらいのニュアンスでした。ご指摘で、ちょっと不当に煽りすぎたと反省しました。今後は「病理」という言葉の使用は控えたいと思います。ご指摘ありがとうございました。

>ここの管理人さん「でも批判される当事者から見たら、「批判が教材」というのは腹が立つことだと思いませんか?」
よく分かりません。やましい点がないのならば、正々堂々と反論すれば良いでしょう。批判が正当ならば、それは当事者が甘受しなければならない報いではないでしょうか。「失敗学」の理念ではないですけど、過ちの事例のモデルケースを学ぶ機会は貴重だと思います。もちろん、過去の過ちをもって、いつまでもその当事者を非難・差別・中傷し続けるような事がないよう、常に自戒し、警鐘を鳴らし続けるのは大切だと思いますが(「罪を憎んで人を憎まず」の精神でしょうか)。
特に注意しなければならいのは、当事者を断罪する事が目的ではないし、そういう雰囲気になってしまっても望ましくないという事だと、私は考えています。経験的には、当事者には「そうだね。気持ちはよく分かるけどね……」という接し方で、ギャラリーには「そういう陥穽があるんだなぁ。自分は気をつけたいなぁ」と感じさせるような対応ができれば良いような気がするのですけど、本当にそれが良いのかは分かりませんし、そもそもそんな対応がどうすればできるのかも分かりません(つまり私には今のところできていません)。その辺りの事は、「ニセ科学批判者」たちの間で、活発に議論が交わされている問題でしょう。ここの管理人さんからも貴重なご意見があれば幸いです。

Posted by: 田部勝也 | 2007.08.26 at 12:08 AM

ちょっと特に注意を促しておきたい点なので、しつこくて恐縮なのですが、お許し下さい。

>ここの管理人さん「当事者にとって運と割り切りにくいと思います」
もしその当事者に、自分は悪い事・望ましくない事をしていたという自覚があった上で、自分が批判の対象になった事自体に納得がいかない──という言い分が(嘲笑される事を目的とした飲み屋での愚痴以上に)少しでも説得力を持つような社会ならば、それはちょっと私の価値観から言えば、異常と言うしかないように思えます(「その批判の強さは対象の行為・言説に比べて不当に行き過ぎている」という事ならば別ですけど、そういうニュアンスではないですよね)。
もちろん、私の価値観から言えば、今の社会は、その点で異常だというのは認めます。だからこそ、「それはちょっとまずいんじゃないのか」と声をあげたいわけです。

Posted by: 田部勝也 | 2007.08.26 at 12:33 AM

一言だけ(不適切であれば削除ください。当然ですが)

私の推測では、津村さんは(ニセ科学ではないけれど)被害防止のために科学を使うお仕事をされている方、と思います。それは当然、加害活動を取り締まることにも間接的に結び付くことがあるんだと思います。

Posted by: 比ヤング | 2007.08.26 at 01:41 AM

結局、本質的な部分が何も伝わっていないようで残念です。僕は本当に話も文章も下手なのでしょう。
 
「最大限具体的」と書かれたことが、まったく具体的ではないので、困ります。具体的な話をするなら、具体的に書くしかないです。
 
さて、「優先順位問題」は完全にFAQで、これには三つの立場があります。(1)自分が最も大事だと思うことが万人にとって最も大事であるのでその立場を押しつける(2)優先順位は各自が決める(3)不公平がないようにあらゆる問題を取り上げる。それができないのなら何もしない。
 
これまでにも「あれを取り上げてこれを取り上げないのは不公平である」とか「あれよりこれが大事だ」とか、いろいろ言われてきたわけですが、完璧を期すなら何もできません。だから、完璧を望む人は口をつぐむしかないでしょう。
また、「これもとりあげろ」「あれよりこれが大事だ」と思う人は、人に頼らずに、「これ」について自分で批判活動をするしかないんです。結局、各自の価値観・各自の優先順位でやっていく以外にないのですよ。
「あらゆるニセ科学を公平に裁いてくれる組織」なんてものはないし、できるはずもないのです。それを待っていたら、何もできません。そのような組織の必要性はまったく感じませんが。
公平を重視するか、今できることを重視するかで、それは個人の判断です。僕は「公平性など望むべくもない幻想」と考えるので、自分にとっての優先順位に沿ってやっています。
 
同様に、「伝わり方を心配するあまり、何もしない」というのも、もちろん自由ですが、僕はそうはしないということです。
それではだめだと思われるなら、菊池のやっていることはまったく駄目であると批判していただけばいいかと思います。
 
ちなみに、どこで誤解されたのかわからないけど、「科学の啓蒙」が目的で「ニセ科学批判」をやっているわけではないです。それらに関係はあるけど、決してどちらかがどちらかの目的ではない。大ざっぱにはそれらは別の話です。
夏の学校では「ニセ科学批判なんかやったって面白くないんだから、むしろ科学をきちんと伝える努力をしてください」と強調しました。別にニセ科学撲滅のために科学を伝えろと言ったわけではないです。そのほうが楽しいのだから、そうしたほうがいいということです。
  
「ニセ科学は、社会に二分法思考などの"単純思考"が蔓延していることのひとつの表れではないか」という話は夏の学校でもしました。それは仮説であると言ったはずです。それは当然、仮説ですよ。それについて、僕はいろいろな機会にいろいろな人に話して、いろいろな人と議論しました。これまでのところ、あながち的はずれな考えでもなさそうであるというのが僕の判断です。いずれにしろ、僕はニセ科学問題をそう捉えています。
そうではないというかたは、そうではないと意見を表明されてもいいし、議論がお望みなら議論のお相手をします。
 

Posted by: きくち | 2007.08.26 at 02:44 AM

「批判される側との確執」がキーワードですかね。
もちろん、批判しているわけですから、確執はあってもしかたないですよね。それがまずいのだろうか、ということですが。「ニセ科学批判」というのは初めからそういうものです。学会で行われる学問上の批判とはまったく違います。
 
まともな反論ならきちんと収束するでしょうから確執にはならんでしょう。無意味な反論なら無意味なままです。それを確執と呼ぶならそうなんですよ。
 
津村さんが「5分で伝授できる・・・」を書かれた時点で、津村さんも確執の可能性を抱え込んだのですよ。

Posted by: きくち | 2007.08.26 at 03:00 AM

こんにちは、皆さん。

>意図(理念)は私も十分納得しています。納得していることを繰り返し強調していただいてもこれ以上納得できないので話が進展しません。

おそらく、最初にコメントした「社会的規範基準」と「学問的規範基準」の区別がご自身の中でまだ明確ではないのではないでしょうか?

社会的規範基準というのは、否応なしに「善悪判断」であり、そして「レッテルはり」的なものです。殺人という社会的に最も「悪」とされる事件を一つとっても、実態的には正当防衛が成り立つものもあれば、正当防衛とまではいえなくても情状酌量の余地が大きいものもあります。そして中には情状酌量の余地などまったくないものもあります。そういう実態的なバラツキがありながら、「殺人」という言葉で一つの事件が述べられるなら、そこには「悪い事が成された」という概念が必然的に付きまとうわけですね。

社会というのは学問的な判断基準で動くわけではなく、こういう「善か悪か」の判断で、悪といわれるならそれに対してほぼ自動的に嫌悪するという構造によって動いているわけです。我々が社会に対して「ニセ科学」の話をするなら、否応なしに「これはニセ科学なのか、まともな科学なのか」と問いかけられ、そしてニセ科学と言ったら必然的に「それを悪と断じている」とされる構造を持つわけです。

学問的に「定かでない」ことについては「もう少し研究が進まないと判断できない」というのは学問的な態度です。しかし、「定かでないことが定かであるように社会に流布された」ときに、社会に対して「判断できない」から沈黙すると、「定かでないことを社会に対して定かである様に言うのは悪である」という社会的判断基準における悪を見逃すことに協力することになります。

私はニセ科学に関しては、比較的簡単な判断をしています。学問的に「定かであるかどうか」ではなく、「社会に出してよいところまで定かであるかどうか」を考えたりします。そして、社会に出してよいところまで学問的な確かさがないのに社会に出されていたら、それはニセ科学だろうと考えています。もちろん、この「社会に出してよいところまで」は単純な基準ではありません。社会のリスク回避のためであれば「可能性段階」でも社会に警告する必要が出ますが、社会の利便性ということであれば「もう少し学問的にはっきりしてから出すべきだ」と「可能性段階」では出すべきではないと考えますからね。

 社会の病理に関する根拠の議論についても以前、あちこちで議論になったことがあります。霊感商法被害を扱っている弁護士の団体が「TVのオカルト系番組の隆盛は霊感商法被害と関係する可能性があるので、番組制作において真実であるように放送しないで欲しい」と申し入れをしたことがあります。ネットの議論において「弁護士は正確な相関を示す統計データなどを示すこともなく申し入れをした。科学的ではない」という批判をする人がいました。なんて言いますか、根拠というのは統計データに限るわけでもないのだろうと思います。現場で霊感商法被害の救済に当たっている弁護士が、さまざまな被害者の話を聞くうちに「どうもTV番組の影響があるな」と考えるならそれもまた根拠として扱うべき部分があると考えます。

昨日、所の一般公開をしていたら、或るOBの人が尋ねてきてくれました。「実は相談がある」といわれて、無理やり時間をとって話を聞きました。そのOBはいろいろな会社の技術相談に対応するような職場に再就職されているですが「怪しげな話を真に受けて相談に来る会社の人が多くなって困っている。そういう人にどう話せばいいのだろう」という相談でした。時間がなくて「来週にも私が集めた資料などを送ります」ということにしたのですけどね。こういう話は別にその人だけではないのです。公設研の技術相談窓口の人からも聞きますし、うちの技術相談窓口でもあります。

津村さんが「現実など見る気はない、自分は学問的正しさの中で遊んでいたい」といわれるのを止める気はありません。でも現実は動いていますので、邪魔をするのはほどほどにしていただければと思います。

Posted by: 柘植 | 2007.08.26 at 05:26 AM

こんにちは。

>「ぶんせき」誌投稿への意見をブログに書いたことについて
 問題ないと思います。学会誌であっても、出版されて広く読まれるものに書かれている内容は、公開された言論と表現ですから、誰がどんな方法で内容の批判を行っても自由ですので。

>「その情報が間違いなく受け手に伝わるか」
 間違いなく受け手に伝わる工夫や努力は継続して行う必要があります。が、どんな内容でも表現でも、最後のところは、他人の読解力・理解力に責任は持てない、ということになります。十分説明を尽くして、かつ間違って受け取られるのであれば、それはもう不可抗力とするしかありません。批判する側としては、通常の人の理解力を想定するしかありません。メディアや内容を問わず、情報発信する側は、受け手の理解を規定することなど最初からできないんですよ。

>「レッテルを貼ってほしい」という一般の人からの熱い期待がある中、専門家としてその期待に応えることに注意が向いてしまうのは人間的に自然なように思います。

 私は、これまで、主に水関連を中心にして、怪しい宣伝の批判活動をやってきました。確かに、これはニセですか?という問いはたくさんありました。その時の答え方ですが「どの部分がどう変か」までっきちんと説明しております。また、学生に対してニセ科学関連の講義をすると、「これはニセですか」の質問がいっぱい出てきます。その時も、今科学でわかっていることを判断材料として提供し、少し考えてみよう、という方向に誘導したりしています。
 個別のニセ科学は、この先いくらでも出てくるでしょう。ですから、教育という意味では、個別にニセかどうかを言っても意味がありません。もし、「大学の先生がニセだと言ったから」を判断基準にしてしまうと「○○博士が本物だと言っている」もまた判断基準になるのですよ。だから、次に新しいニセが出たとき自分で判断できるような考え方を教えないといけない。

>理念を説くものよりも個別の「ニセ科学」をめぐる論争(あるいは批判される側との確執)を多く目にしました。

 個別の事例に踏み込めば、必然的に誰かの商売に差し障ることになります。ですから、確執ではなく「紛争」に直結します。

>「被害を防ぐ」目的というならわかります。営業的に不利益を与えるのがすなわち被害を減らすということですから。

 この見方も単純過ぎます。ニセ科学がもたらす被害は、「インチキ業者」対「消費者」という構図だけでは捉えきれないのです。
・ニセ科学宣伝を信じて物を買うことで消費者が被害を受ける
・ニセ科学を信じて商品を開発することで、開発の方向が間違ってしまい、事業者が損をする(無意味な測定をしたり、部品をくっつけたりするなど。事業者なのに十分な知識がなかったという面を考慮しても、やっぱり損でしょう。環境負荷まで考えればもっと大きな損になります)
・事業者の開発が間違った方に進んだり止まったりすると、いい製品が出てこなくなり、間接的に消費者も損をする。(社会全体としての損)
・ニセ科学にもとづいた商品を売って、何らかの被害が発生した場合、本当はその製品が原因でなかったとしても、事業者側の無過失の立証はほぼ不可能となるので、事業者が訴訟で著しく不利になる(負わなくていいリスクを負うという損)

>批判されるべきなのに運良く対象にならないものが発生するのは不公平でしょう。
 どんなものでもそうですよ。
 交通違反の例は既に出ていますが、公取の排除命令だって、せいぜい数社が対象です。以前に出た活水器に対する排除命令のケースでは、類似の表示をしている業者がいっぱいあるのに、選ばれたのは3社でした。

>例えば経済的な要因も大きくないでしょうか。物質的に充足されている現代日本では、商品の差別化が求められるために増えているにすぎないのかもしれません。

 社会的な規範としては「他人にウソをついて金儲けをしてはいけない」あると思うんですよね。でですから、他人を騙す宣伝で商品の差別化をした(ように見せかけた)時点で、社会的な規範からは外れています。その数が増え、かつそのことに対する「規範に外れているという自覚」が低下したならば、ニセ科学とは無関係に「社会的病理」と呼ぶこともあるんじゃないでしょうか。

コメント欄より>「科学の啓蒙としてニセ科学批判にコミットしましょう」と言われると、気軽に応じられそうな反面、のぞいてみると具体的なネット活動は被害防止活動と深く関わっているので驚くことになるかもしれません。

 多分これは一周遅れた認識じゃないかと感じました。私は、被害防止(これは、消費者と研究者と社会的なものも含んだ被害防止です)活動のためにニセ科学批判をやってみたら、同じニセ科学の内容を信じる人が多数居る上に、新しいニセ科学もどんどん出てくるという現実に直面したわけです。それで、個別の例を取り上げることも必要だけど、もうすこし手前のところで引っ掛からないようにしないとまずいんじゃないかと考えるようになりました。それで、科学リテラシーをどうやって教えるかからやらないといけないんじゃないか、というところにたどり着いたんです。ここまで来るのに8年ほどかかっています。

 「ニセ科学というレッテルを貼る」ということについてですが、ニセ科学だとして取り上げることが、普通に用いられる比喩的な意味での「レッテルを貼る」ことにはならないと考えます。まず、実体があやふやなものに対し「これは科学である」というレッテルが先に貼られているという現実があるんですね。それを批判するということは、「科学である」レッテルの上に「ニセ科学である」を貼り付けるか、もしくは既に貼ってある「科学である」レッテルを間違いを理由に剥がす行為であるかのどちらかです。

 ニセ科学批判へのお誘いですが、「コミットできそうな人はしてください」であって、気軽に誘うようなことはしていません。ただ、コミットしない場合も活動の意味は認めて邪魔をしたり足を引っ張ったりはしないでください、ということは広く伝えたい。
 やって(社会的)意味のある批判は、法的紛争に直結していますので、最後は法廷に出て訴訟に対応する覚悟のある人しかやっちゃいけないんです。たまに「自分にもできることは無いか」と言ってくる人もいますが「紛争をやり抜く覚悟があるなら歓迎します」と答えています。脅されたり嫌がらせされたりして止めるくらいなら、表に出て個別の批判などやらない方がいいんです。そういう人にも、批判的な情報を伝えるイベントに参加するとか、身近な人に伝えるとか、差し障りのない範囲で賛同する意見を出すといった、穏やかな活動をする方法はいくらでもあります。

>でも批判される当事者から見たら、「批判が教材」というのは腹が立つことだと思いませんか?
 腹がたつのはいけないことですか?宣伝であろうが論説の発表であろうが、何かを主張すれば、それに対して批判があるのは当たり前です。批判されて腹が立つのが嫌なら、最初から口をつぐんでいればいいだけのことです。

>一般国民に「病理」と言えるほど科学的な態度の欠如が増えているのでしょうか?

 打ち切りになりましたが、「あるある大事典」の「実験」を信じたり、みのもんたの健康番組を信じて翌日のスーパーから特定の商品が消えるということをどう考えておられるのでしょうね。

Posted by: apj | 2007.08.26 at 05:31 PM

放射化学が専門なので「マイナスイオン製品」に含まれる放射能の論文をいくつか書いています。

いまも2つほど投稿中ですが、割と好意的な査読者の場合もかならず実験に用いた試料の代表性を問われます。そう言われても、通勤途中に店によって買った製品なので、代表性などありません。普通の論文だと分析法よりもサンプリングの方が重要と考えているので、その点では投稿する価値があるとは自分でも疑問です。それでも大学の図書館に置いてある雑誌にこの問題を書くことは大切かなと思っています。

それと、「マイナスイオン製品」に関してBBSなどで議論していると、批判派の方から「危ない人」と思われてしまうことがあります。ニセ科学も問題だけど、教科書に書かれていることを疑う人間を否定することも危ういことだと感じています。

なんか自分でも議論の流れに乗れていない気がしますが、関心のある話題なので書いてみました。

Posted by: ICE | 2007.08.26 at 08:25 PM

ICEさま:

「マイナスイオン」という言葉を使うのは危険ですが、「いわゆるマイナスイオン製品」について科学者の立場から研究すること自体に問題があるわけではないです。それがコロナ放電なら「マイナスイオン」ではなく「コロナ放電」と呼ぶほうが安全だし、「マイナスイオン製品として売られているもの」の研究ならそのように言えばいいでしょう。
僕のサイトに置いてある「ニセ科学入門」という文書にも明記してあることですが、「ニセ科学とされるもの」を研究対象とすることが即ニセ科学というわけではないと僕は(たぶん多くのニセ科学批判者は)考えています。
 
多くの「ニセ科学批判批判」のかたがたが誤解されているようですが、ニセ科学批判とは「教科書に書かれていることを疑う人間を否定する」ことではありません。
「ニセ科学」はそんな高尚なものではないので。すごく簡単に言うと、「教科書に書かれていることを疑う」のではなく、「教科書に書かれていることも知らない」というのがまあ典型的なニセ科学だと思います。そういう場合に僕たちは「まずは教科書レベルの勉強から始めるべきだ」と言うわけです。

Posted by: きくち | 2007.08.26 at 10:45 PM

菊池さん、柘植さん、apjさん、丁寧な解説ありがとうございます。

特に柘植さんのコメントを読んで急に理解できたような気がします。
非常にシンプルに
「科学を装って社会に出回るものが増えた。これをニセ科学と呼びましょう」
ということなのでしょうか。

「ニセ科学」という言葉が必要になったのは、単純に「該当するものが増えたから名前がないと不便」と考えればよいのでしょうか。
「疑似科学」等の従来の用語を使わないのは、「近年増加した疑似科学的商法群を主に意味するニュアンスの言葉にするため、また、明確に悪であると示すため」なのかと思います。(悪であると示すためというのは、菊池さんのホームページにもありましたよね。)

そうだとすれば、やたらに「懸念」と書いた私の捉え方は過剰反応だったと思います。疑似科学的商法が増えたのは私も認めますし、かつて「オカルト」や「霊感商法」という言葉が普及したように、これらを指す言葉は必要だと思います。

「使いたくない人は使わなければよい」と菊池さんは言われましたが、「使いたくない人は別の言葉を提案してください」かもしれません。必要な言葉なんですから。

私は2週間前に菊池さんの講演を聴いてこの問題に関心を向けたばかりですので、何年遅れとか何周遅れとか言われても仕方ありません。
今はまだ、ニセ科学というものがあることを世の中に知らしめて、ニセ科学という言葉を普通名詞にしてしまうのが当面の目標なのかなと思います。
ニセ科学がなぜ大量発生しているかについての共通認識は必要ない。大量発生しているという事実だけで十分。でもまだ普通名詞になっていない。相当する言葉は、ほうっておいてもいずれできるでしょうが、意識して誰かが作ればそれだけ早く社会的な関心が向けられるし、被害の発生も少なくなる。

また、ニセ科学について語るためには具体例を示さなければならないし、見つけたからには単に観察するだけでなく訴訟覚悟の批判活動も行う。そういうものだと理解しました。

私は、ニセ科学批判の目的について誤解していました。科学リテラシー向上のための啓蒙活動のように考えていました。
そのように誤解した理由は、一つは菊池さんの講演にもあった「ニセ科学蔓延の背景に二分法思考などの蔓延がある」等の社会批評です。これを「ニセ科学は社会の病理の表出にすぎない。根本にある科学的思考の欠如が問題」と解釈しました。
もう一つの理由は、「私が問題性を感じた理由」で「産総研の企画で『科学とは何か』も伝える努力をしたのに観客の反応はレッテル貼りを求めていた」点を取り上げたのに、これに対して菊池さんも柘植さんも反論をしなかったからです。

科学の啓蒙が目的ならこの観客の反応は問題ですが、ニセ科学を世に知らしめる目的では、ごく自然な反応ですし、最初はこんなもんでしょう。
レッテル貼りされたニセ科学のサンプルをいくつも見て、そのうち新しいものに出会っても少しずつ自分で判断できるようになる・・・そんな感じではないでしょうか。

だから、「最初はレッテル貼りが必要」と堂々と言えばいいのではないですか。「レッテル貼り」という言葉のネガティブさにたじろぐ必要はないと思います。「ニセ科学」が普通名詞になってしまえば、中学生が普通に「それってさ~、ニセ科学っぽいじゃん」と会話するようになります。レッテルどうこうなんて騒いだ頃が懐かしいでしょう。
(まあ、apjさんによればむしろ嘘のレッテルをはがす行為だそうですが)

科学的な態度の涵養みたいなものを達成目標にするのは、まだまだ早いように思います。常に意識しておくのは大切ですけど。まあ、目標と勘違いしたのは私のほうですが、本当のところ菊池さんの講演からはそのように感じました。

ニセ科学批判の目的についてなぜしつこく問題にするかというと、菊池さんが言われるとおり「批判される側との確執」がキーワードです。具体例はやはり挙げたくありませんが、感情的なものが渦巻く確執(apjさんによれば紛争)が目に付きました。

「啓蒙が目的」と聞くと、お行儀のいい活動をイメージします。ネットでの確執は、啓蒙や教育とは相容れないように思います。(私の先入観かもしれませんが。)それと、これが重要なのですが、啓蒙目的なら既に評価の定まったものだけ教材にしてもいいわけです。現在進行形の紛争を教材に啓蒙とか教育とか言われたら、たとえ相手が悪いのだとしても、人間として失礼ではないかと考えてしまいます。

そういう活動には「ブログで好意的に書く程度でも」関わりたくない、心底そう思いました。

「関われなんて言っていないではないか」と菊池さんはおっしゃっています。しかし私はコミットを呼びかけられたと思いました。
その根拠は、菊池さんの講演の中で、ニセ科学の例を並べたスライドを見せながら「化学系のみなさんに関係するものも結構ありますよ。○○や××なんかは化学の話ですから、みなさんに取り組んでほしいです」とおっしゃったからです。(「取り組む」という言葉ではなかったかもしれません。)
もう一つは柘植さんの「ぶんせき」誌への投稿ですね。どちらもコミットにそれほど覚悟のいる活動とは思いませんでした。

apjさんのように「紛争をやり抜く覚悟があるなら歓迎します」と最初から言っていただければ、気安くブログで「ニセ科学」を話題にしてその後で態度を修正することもなかったと思います。

訴訟まで覚悟できない科学の専門家がコミットできる穏やかな活動の例をapjさんが挙げておられますが、もう一つ「ニセ科学が存在することを認める」「ニセ科学が普通名詞になる方向へ協力する」もあるのかなと思いました。
私は科学の専門家として断言しますが、ニセ科学はいっぱいあります。ネット上で個別のものを挙げられるほど勇気はないですが。

今のところ「ニセ科学」という言葉は、菊池さんたちの活動と結びついた何やら党派性を帯びた言葉に留まっているように思います。無党派の人が無意識に使うようにならなければ、普通名詞と言えません。

必要な名詞であり、今のところ対抗するものはないので、私はとりあえずこの言葉を使うことにします。誰かがもっとぴったりの言葉を考え出せば乗り換えるかもしれませんが。
それから、場合によっては「ニセ科学商法」といった言葉にしておくほうが河合潤さんのような懸念は出てこないかもしれません。

Posted by: ここの管理人 | 2007.08.26 at 10:52 PM

>でも批判される当事者から見たら、「批判が教材」というのは腹が立つことだと思いませんか?

ああ、apjさんのを読むまで、これを見逃していました。
腹が立てさせることのどこがいけないのか、ですね。僕は「教材」とは思いませんが、「実例」扱いすることはよくあります。腹が立つなら立てればいいのでは?
批判ですから、それに対して反論するか納得するか、はたまた怒るか、まあ反応はいろいろありうるわけです。「怒る」はもちろん想定される反応の範囲内です。
批判を書く以上、その程度のことは想定して書くわけです。apjさんは訴訟まで想定するみたいですが、僕も「訴訟沙汰になる可能性がないわけではないかもしれない」と考えながら書いています。世の中にはとんでもなく理不尽な理由で裁判を起こす人もいるので

Posted by: きくち | 2007.08.26 at 10:54 PM

「ニセ科学」という言葉は化学同人から出た「ハインズ博士」の邦訳版の帯にも書かれていますし、マイクル・シャーマーの本の邦題にもなっているくらいで、別に僕が作った言葉ではありません。僕はシャーマーの本からとりました。
 
僕がこの言葉を採用したのは、「擬似科学」という言葉のもつ「価値中立性」が嫌だったからで、「ニセ科学」という言葉を意図的に使うのはそこに「価値判断」を含めたいからです。この点も夏の学校で説明したし、僕の「ニセ科学入門」にも書いてあります。また、嫌な人は好きな言葉を使えばいい、と繰り返し言っています。
 
ちなみに「擬似科学」だって全然普通名詞ではないです。普通名詞にしなくてはならない理由がまったくわかりませんが。どれもこれも今のところ「かっこ付き」の言葉ですよ。
  
「夏の学校」では、ニセ科学批判なんか面白くないわりに大変だから誰にでも勧めるわけではない、と明言したはずですよ。「それよりも科学を伝えてください。ただし、科学を魔法のように伝えるのはニセ科学に荷担するようなものです。科学にはその裏にきちんと筋があるのだということを伝えてください」と言ったはずです。
 
ニセ科学はたくさんあります。それをどうしたいか、だけの問題です。どうにもしたくないなら、ほおっておけばいいし、どうにかしたいなら、何かをするしかない。他人の「批判のしかた」がおかしいと思うなら、自分の「批判のしかた」を実践してみせるしかないです。それ以外のやりかたはないんですよ。
「批判はすべきだが、連中のやりかたはおかしい。自分ならもっとうまくやれると思うが、やる気はない」というのでは、誰にも対応できないです。

Posted by: きくち | 2007.08.26 at 11:15 PM

>ニセ科学批判の目的についてなぜしつこく問題にするかというと、菊池さんが言われるとおり「批判される側との確執」がキーワードです。具体例はやはり挙げたくありませんが、感情的なものが渦巻く確執(apjさんによれば紛争)が目に付きました。

 私には未だに管理人さんのおっしゃる「確執」が具体的に何であるか、全く見当がつきません。また、私が「紛争」と書いたのは訴訟のことですから、一般名詞の「確執」とは区別してください。
 ということを書いた上で、「確執」がなぜいけないのかが理解できないんです。管理人さんが「確執」がいけないと思う理由について、説明していただけないでしょうか。また、管理人さんにとって「論争」と「確執」の区別はどういうものなんでしょうか。


>ネットでの確執は、啓蒙や教育とは相容れないように思います。(私の先入観かもしれませんが。)

 他人の議論から学ぶ、ということもありますよ。

>現在進行形の紛争を教材に啓蒙とか教育とか言われたら、たとえ相手が悪いのだとしても、人間として失礼ではないかと考えてしまいます。

 紛争の過程を見せることも教育のうちです。法的紛争だって、決着が付く前から訴状やら訴訟資料やらを全部公開しながら進めてたりしますので……。

Posted by: apj | 2007.08.27 at 05:08 AM

こんにちは、皆さん。

>もう一つの理由は、「私が問題性を感じた理由」で「産総研の企画で『科学とは何か』も伝える努力をしたのに観客の反応はレッテル貼りを求めていた」点を取り上げたのに、これに対して菊池さんも柘植さんも反論をしなかったからです。

私は『ニセ科学暴きでは解決しない』と考えながらも、こういう聴衆の『ニセ科学であるものをニセ科学と教えてくれ」という希望を否定することができないのです。あえて言うなら「入り口としての必要性」を感じています。それは、ちょうど所内公開でさまざまな「不思議体験」のブースを作るのと同じです。不思議体験そのものは科学的な啓蒙ではないけれど、そういう不思議体験を求めて土曜日には1700人もの人が研究所にきてくれました(うちのキャパシティを超えているのですけどね:笑)。

昨年の講演で話したのは「皆さん、不思議な面白い体験をしたくてお見えになっています。あるいはお子さんに体験させてあげたくて連れてこられています。でもね、お子さんに『どうして、あのシャボン玉はあんなに大きくできるの』と聞かれたときに『科学だから』というのはやめてくださいね。それだと『魔法だから』というのと変わらないですからね。なかなかわかり易くは書けないのだけど、傍のパネルにはきちんと理屈が書いてありますから読んでください。読んでわからなかったら担当者に説明を求めてください。こういう不思議なことのうしろにあるきちんとした理屈というのが科学なんです」みたいな話をしました。

理屈だけを前面に出して所内公開をするなら、たぶん数百人しか人はこないでしょう。数多くの体験型のデモンストレーションを用意するからこそ人はきてくれる訳です。それと同じように「入り口」として「ニセ科学であるものをニセ科学と教えます」という部分を持つ面は否定できないと思っています。

Posted by: 柘植 | 2007.08.27 at 05:41 AM

ひとつ、ずっと疑問に思っていることがあるので、書きます。
津村さんは「個人や団体の批判はしない」というのをこのブログのルールとしておられます。もちろん、個人のブログですからどんなルールを作ろうと自由ですし、たぶんそのルールに至るさまざまなことがあったのだろうと推測します。
 
それはそれでいいのですが、今の議論でなかなか「具体例が挙がらない」理由は、もしかしたらそのルールのせいなのだろうかという疑問があります。
万が一そうだとしたら、それは議論の相手に少々失礼なのではないかと思います。初めから誰の批判もしないのであればいいのですが、既にご自身のルールを逸脱して批判を書いているわけです。批判相手の反論にきちんと答えるために具体例を挙げる必要があるなら、挙げるしかないと思うのですよ。
 
「確執」が具体的になんなのか。もし、吉岡氏とapjさんやお茶大のことなどであれば、あれはどう考えてもあちら側が理不尽なわけです。あちらにはあちらの都合があるのですよ。理屈よりは都合でしょうね。もし、「確執」として問題視されているのがああいうことであるなら、まともな批判はできません。理不尽な相手ってのはいるものです。

Posted by: きくち | 2007.08.27 at 08:48 AM

apjさんのコメントに対する補足的な説明です。

>打ち切りになりましたが、「あるある大事典」の「実験」を信じたり、みのもんたの健康番組を信じて翌日のスーパーから特定の商品が消えるということをどう考えておられるのでしょうね。

管理人様は
『人口の高齢化で健康不安を抱える人が増えたことも要因』ではないか、とお考えになっております。科学的態度の欠如の増加よりも、健康への不安の方が大きいと、私も思います。

また、「あるある」の場合は科学者のコメントの改変やデータの捏造など、一概に消費者側に原因があるとも言えないでしょう。

「みのもんた」の場合は、彼は中高年の奥様方から「みのさん」と呼ばれ、熱烈な人気を集めていることはどなたもご存知のことと思います。消費者が彼の番組を見て消費行動を促されたとしたら、それは彼の人柄を信用した結果でしょう。

確かに、いずれも科学的な態度は欠如しているでしょうが、それは「翌日のスーパーから特定の商品が消える」主要な原因ではないと思います。

Posted by: 虚無僧 | 2007.08.27 at 01:07 PM

津村です。
ICEさん、久しぶりに書き込んでいただいたのに、レスなしですみません。

十分時間を取れないので皆さんの質問に答えていない部分があるかもしれません。無視するつもりはなく余裕がないだけですので、答えが必要ならあらためて質問してください。

私が「確執」と呼んだのは、主に「ニセ科学だとして批判された側がひどく怒っている」「批判した側も相手が怒っていると知っている」ことを示すウェブページ群です。具体例は挙げません。

「匿名のかたへの批判・反論はしません」の最後に書いていますが、批判をしない方針は「暇がないから」という理由なので、必要性が高まればすぐにでも破棄する予定でした。
いっぽう、「私以外への批判コメント禁止」の方針は破棄していません。具体例を挙げるとこのブログで私以外への批判が始まってしまうことが必至です。
今回の菊池さんのコメントには個人への批判が含まれていますから削除対象ですが、話の流れからしてそれはできないと思うので特別に削除はしません。

apjさんから質問された「『確執』がいけないと思う理由」を答えます。
確執がいけないとは思っていません。利害が対立すれば必然的に確執が起こるし、訴訟になることもあるでしょう。信じるところを貫いて訴訟に至ったなら、その経過を見せるのも立派な教育だと思います。
しかし、教育とか啓蒙という目的がまず先にあって、そのための社会見学のように批判対象を選ぶのは全く話が違うと思います。相手がどんなに間違っていたとしても、人の道をはずれていると思います。(これは私の個人的な価値観です。一般化するつもりはありません。)

夏期セミナーの菊池さんの講演では、「ニセ科学は悪いものなんだ。自分たちはそれらをやめさせるための批判活動をしている」というまっすぐなメッセージが伝わってきませんでした。

確か「ニセ科学の問題点」を列挙したスライドが1枚ありましたが、あまりきわだった項目がなく、説明もさらりと流れました。
「ニセ科学の実例」が並んだスライドでは「これを全部知っていたらちょっと危ないかも」と言って会場の笑いを取っていました。最後の質疑応答では「ぼくはもともと怪しげなものが好きなんで」と言われました。(講演の後の雑談だったかもしれません。)

「水からの伝言」に子供が疑問を呈して教師に叱られた話などもありましたが、全体としてニセ科学を「社会悪」としてでなく「キワモノ」のように話されたと記憶に残っています。

そして講演の主題は「科学的な態度の大切さ」だったと私は思っています。「ニセ科学よりも科学を伝えてください」と強調したと菊池さんも言っておられますから、そうだったんでしょう。

それで私は、菊池さんの活動はニセ科学を教材にして科学的な態度の啓蒙を行うことなのだろうと思ったのです。ブログの雰囲気も知的サロンのようでした。
そのような目的で相手が怒る批判活動を行うのは不遜だと感じました。

しかし、菊池さんも実は「ニセ科学という社会悪を正す」が最大の目的なのですよね。みなさんにとっては「何をいまさら」かもしれませんが、apjさんのわかりやすさに比べて、菊池さんはとてもわかりにくいです。「私が問題性を感じた理由」のコメントを書いた頃は最も誤解していました。申し訳ありませんでした。

「あるある大事典」の件ですが、ニセ科学がなぜ増えたかはゆっくり考えればいいことで、単に「ニセ科学が増えた」というだけでも対策を講じる根拠として十分と思います。

Posted by: ここの管理人 | 2007.08.27 at 10:42 PM

> しかし、菊池さんも実は「ニセ科学という社会悪を正す」が最大の目的なのですよね。

 二分法に陥って、誤読しているいると思いますので、簡単なまとめではなく、きくちさんの投稿を読み返してみるといいと思います。

Posted by: newKamer | 2007.08.28 at 05:18 PM

>虚無僧さんへ。
他の方はともかく、私個人としては、虚無僧さんが2007.08.27 at 01:07 PMのコメントで述べられたような現象や要因そのものを問題視しています。少なくとも私はそれらが望ましい状況とは思えません。
それらの要因が科学的な態度の欠如にあるのかどうかは私には分かりませんが、少なくとも多くの「ニセ科学」(と呼ばれるモノ)が蔓延する要因と共通のモノがあるのではないか……とは感じているわけです。
──「レッテル貼り」問題については、あくまで私個人の考えですけど、
http://hpcgi2.nifty.com/k-tabe/yy-nifty/yy-nifty.cgi
上記URL内に私見を書いてあります。他人の批判に晒された事のない考えなので、的を射た内容、望ましい内容になっているかどうかは分かりませんが、ご一読下さればと思います。ここでは他人に対する批判は禁止のようですが、私の考えに対する批判は当然あるかと思いますので、上記URLのほうに返信して頂ければと思います。

Posted by: 田部勝也 | 2007.08.28 at 10:49 PM

ニセ科学のどこを問題視しているか、僕の「ニセ科学入門」にも書いてあるし、「論座」の記事にも書いてあります。
 
「笑いが起きるならまじめな話ではない」などとお考えならそれはちょっとどうかしています。それなら、津村さんご自身の話もまじめな話ではなかったことになります。
ケーススタディは科学者なら笑っていただければいいのです。そこでやめるなら話は簡単です。しかし、僕はその後に「ここからはつまらない話をします」と宣言しました。当然「つまらない話をわざわざする以上、それは重要である」ということに決まっています。大事な話でないなら、つまらない話などしないわけです。
 
僕は「元々怪しい話が好きで、笑っていたのだが、オウム真理教をきっかけに、笑っているだけでは済まないかもしれないと思い始めた。最近特に批判を強め始めたきっかけは"水からの伝言"が
授業に使われていることを知ったからだ」と明言しました。
ただし、「この問題意識をみなさんに共有しろと言っているわけではない」ともつけくわえたはずです。
 
なんというか、津村さんのご意見は、ものごとを単純化しすぎです。
「ニセ科学」問題は多様な視点を要求します。さまざまな角度から見なくてはだめです。「ニセ科学がいかに多様か」とか「対話の問題」とか「善意の問題」とか、さまざまな話をしたはずです。詰め込みすぎでわからんと言われるかもしれませんが、単純な話などできないのです。
 
また「確執」の件で具体例が挙げられないのなら、その話をお出しになるべきではありません。これはアンフェアです。もし「確執」が納得できるものであるなら納得しますが、それがたとえば吉岡氏のような誰がどう見ても理不尽なものであるなら、とうてい納得はしがたいわけです。

Posted by: きくち | 2007.08.28 at 11:02 PM

津村です。
newKamerさん、菊池さん、そのとおり、私の書き方は論理的に他人を納得させられるようなものではありません。書くごとにひどくなってきました。

いくらなんでも知的な部分で自分でも我慢ができないので、仕方なく真実をお話します。私以外の人がこの場で批判されることは私には耐えられません。最小限にお願いします。

菊池さんがお察しの通り、お茶大を訴えている人のホームページです。
特に私が強い衝撃を受けたのは、次の2つでした。それぞれキーワードと共に示します。
直リンクする勇気はありません。コピペして頭にhを付けてください。

ttp://www.minusionwater.com/tugehihan1.htm
「一人前のニセ科学批判者」と「滝」

ttp://www.minusionwater.com/tugehihan2.htm
「完全週休2日の勤務時間中の投稿」


これらを読んで、菊池さんたちのコミュニティの品位を疑いました。
知的サロンに集う暇のある人たちが中小零細業者の仕事を槍玉に上げて楽しんでいるという雰囲気を感じました。

科学的正しさとか論理の問題ではありません。人間性の問題です。

品位・人間性という観点から、これまで互いの主張がかみ合わなかった点について説明します。

「レッテル貼り」
レッテルを貼る人間が信用できないから問題だという意味でした。レッテル貼りそのものにネガティブイメージがあることを利用した論理のすり替えをしていました。

「権威」
ネットに膨大な時間をつぎ込める環境があるという意味でした。私は勤め人ですので、夜か早朝か休日しか書き込みできません。平日の昼間に何度も書き込める人たちと議論するのは、それだけで何か圧迫感をおぼえます。しかもそういう人が複数いて互いに親しいということ、多くの支持者がいることにも脅威を感じました。菊池さんとapjさんがあちこちのブログや掲示板に高密度にコメントに行かれるのを見ました。

「啓蒙が目的かニセ科学批判そのものが目的か」
「啓蒙目的」で代用したかったのは「知的楽しみが目的」、「批判そのものが目的」で代用したかったのは「社会的意義があるとの信念に基づいて真剣にやっている」でした。


当初私の本心は、こういう人たちと関わりたくない、早々に終わらせたいという気持ちでしたが、一方で、何かひとことも言いたくなったわけです。それで深みにはまってしまいました。

しかし、菊池さん、柘植さんが粘り強く対話なさる姿勢、また発言の内容から、だんだん「結構信用できる人たちかも」と感じるようになりました。(失礼な書き方ですみません。)
決め手は柘植さんの 2007.08.26 at 05:26 AM のコメントでした。今では皆さんが「社会的意義があるとの信念に基づいて真剣にやっている」と疑いません。

議論をややこしくして多くの無駄な時間を取らせてしまったことをお詫びします。

Posted by: ここの管理人 | 2007.08.29 at 06:11 AM

ありがとうございます。理解できたので、「確執」問題については、この書き込みで終わりにします
 
やはり、あのかたのページを問題にされているのだとすると、それをもって「確執が起きるから嫌だ」と言われることには納得できません。これは改めて申し上げておきます。
 
批判すれば、反応はあります。意味のある批判に対して理不尽な反応が返ってくることは、いくらでもあります。批判と反応の「内容」をきちんと見ていただかないと、理不尽な反応があることを理由として意味のある批判を否定する、という本末転倒なことになります。今回、津村さんが指摘された「確執」の件は本末転倒の例だと思います。
もう少し、見かけではなく「中身」に注目していただければよかったのではないかと、その点が残念です。
ちなみに、僕はそのかたと直接やりあったことは一度もありません。あちらが僕を勝手に「敵」扱いしてご自身のウェブサイトに書いておられるだけで、僕は基本的に無視しています。その意味ではこちらからすれば、確執も議論も何もないんですよ。

Posted by: きくち | 2007.08.29 at 01:12 PM

たぶん、津村さんも、あるいはこれを読んでいるかたの一部も、なぜ僕が厳しい書き方を続けているか、気になっているかもしれませんので、ひとこと書いておきます。
理由は津村さんが「研究者」であって、「分析化学の専門家」としてこのブログを書いておられるからです。「研究者」相手ですので、僕も単刀直入に書いています。

Posted by: きくち | 2007.08.29 at 07:06 PM

津村さん
ご無沙汰してます。

お疲れのところ申し訳ありませんが、個人的に今回の件をとても残念だと思います。
随分前ですが、うちと某独立行政法人のサイトに対して、某業者からクレームがつきました。ある健康食品素材の毒性に関する情報だったのですが、それを掲載することは営業妨害であり、訴えるというような内容でした。当然情報源は公的機関の発表であり、外国語では既に発表済みのものです。その業者は病気に効くとして販売していました(訴えると言われたのはうちではありませんが)。それに対して私は当然国民保護の立場から毅然と対応すべきであると主張しました。ところが実際に行われたのは上との相談ではなく、当該情報を削除する・書き換えるといったことでした。理由は紛争が面倒だからということです。
こういう事なかれ主義が私は嫌いです。
私と津村さんは同じ組織に所属していましたから、紛争があること自体が問題だという雰囲気はよくわかります。だけどそんな組織内の規範より、公共の利益のために闘え(大げさですが)という社会規範の方が上位ですし私にとっては大切です。子どもに自信を持って生き様を見せられないではないですか。
津村さんの一連のエントリーの「結果」は、私が常に組織の一部の人たちから受けるメッセージ(完璧でなければやらない方が良い)と同じで、何かを「する」ことを非常にdiscourageするものです。それが残念でなりません。
真意は別にあったとしても結果的にきくちさんたちを「背中から撃つ」ことになってます。
御自身も失敗したと思っておられるようですから追い打ちをかけることになりますが一言言わせて頂きました。
このコメントはきっと紛争嫌いの津村さんには差し障りがあるでしょうから消して下さって構いません。

Posted by: うねやま | 2007.08.29 at 07:27 PM

菊池さん、講演の内容を否定的に書いてしまったことも謝っておかなければなりません。すみませんでした。
菊池さんは必要なことをちゃんと全部話されました。ただ、人によって受け取り方には差があるので、私にとってニセ科学蔓延がそこまでの危機とは思えなかったということです。

畝山さん、こんにちは。ブログに書き込まれるのは初めてですね。
菊池さんにも畝山さんにも言っておきますが、私は「批判が嫌いだから」「紛争が嫌いだから」「裁判沙汰が嫌だから」今回の一連の反応をしたわけではありません。他人の生活を脅かすほどの活動をするなら、真剣さが相手にも伝わるように行うのが礼儀ではないかと思っただけです。(私個人の価値観です。)

Posted by: ここの管理人 | 2007.08.29 at 09:30 PM

ニセ科学は消費者の生活を脅かすものです。
「真剣さが相手に」とか「礼儀」とかいうのは、批判される側にということでしょうか。「ニセ科学で商売をしている人たち」に向かって、どのような態度をとれば「礼儀にかなう」のか、僕にはわかりません。
やはり、津村さんは「表面的なもの」を重視しすぎだと思います。もちろん、それが価値観であるなら、しかたありませんが。

Posted by: きくち | 2007.08.29 at 09:57 PM

こんにちは、津村さん。

>ttp://www.minusionwater.com/tugehihan1.htm
>「一人前のニセ科学批判者」と「滝」
>ttp://www.minusionwater.com/tugehihan2.htm
>「完全週休2日の勤務時間中の投稿」

>これらを読んで、菊池さんたちのコミュニティの品位を疑いました。
>知的サロンに集う暇のある人たちが中小零細業者の仕事を槍玉に上げて楽しんでいるという雰囲気を感じました。

 この部分に関しては、ずいぶんと意見をもらいましたね。多くは「お前、脇が甘かったんじゃないか」みたいな意見です。菊池先生や天羽先生は大学の教育者としてこれらの活動が社会教育の一環として「仕事のうち」になるのに対して、私の仕事場のミッションに「教育」は明示的に含まれていないので、公務員時代の用語で言うなら「職務専念義務違反」という突っ込みを誰かが行う隙を見せながらやっていたわけですねからね。

 でも私はあまり悪びれてもいないのですよ。なんていうか、実名でニセ科学批判を始めるときに覚悟だけは十分にしたつもりなのでね。

 なんていうかな、たとえば会社の車に長いはしごを積んで仕事場に向かっていたら、長いはしごがあれば人の役にたてる場面に出くわしたとしますね。いろんな場面が考えられて、火事場で2階で人が助けを呼んでいるのならまあ、仕事場に少々遅れたってはしごを役立てる方が、たぶん、ほめられそうですね。帽子が木に引っかかったのを取ってあげるのだと「まあ、人のためになったんだから良いか」となることもあれば「お前、仕事のほうを優先しろ」ということもあるかも知れませんね。もっとどうでも良いことなら、それはたいてい、「仕事をしろ」となる(笑)。
 変なたとえ話で申し訳ないのだけどね。「勤務時間中に仕事のための道具を別なことに使った」というだけで見れば、はしごで火事場から人を救出したって、帽子をとったって、もつとどうでも良いことに使ったって、全てそのカテゴリーになるわけです。

 別に津村さんにとってはニセ科学の蔓延なんてどうでも良いことだろうと思います。だからこそ、内容を深く吟味することなく「品位を疑う」ということになるわけですね。

 先日私にニセ科学の相談に来たOBの人がね「一番困るのは、大手の研究所なんかも持っている大企業がマイナスイオン商品なんて出してしまったことなんだよ。あれで小さな会社からの怪しげなものに関する相談も増えたし、回答がとてもやりにくくなっている。もう大手の会社の研究者に研究者としての真面目さというのは無いのだろうか」なんてことを言うわけです。私は「たぶん、困った研究者も必ずいると信じています、というか信じたいです。でもね、今の社会というのは個人の倫理観とか研究者の矜持みたいなものが簡単に押しつぶされる時代になっているように思います」なんて答えたわけです。

 なんていうかな、「勤務時間に仕事以外のことをしている」ならそれが何をしていたのであっても「品位に欠ける」とみなしてしまう津村さんご自身の第一印象というのは、「あいつは会社が命じた開発に反発している」ならなんであっても「よくない会社員だ」とみなしてしまう風潮を後押ししていないでしょうか?そして、そう思われるのは誰しも嫌だから、「はいはい、じゃあ、ドライヤーのノズルのプラスチックにトルマリンの粉末でも練りこんでみましょうか」となっていったのではないかと思ったりもするわけです。

Posted by: 柘植 | 2007.08.30 at 04:50 AM

菊池さん
田崎さんの「『水からの伝言』を信じないでください」は表現方法としてよくできていると思います。
物に対する批判に比べて、人に対する軽い態度は強い印象を残すと思います。そしてネット上の表現は独り歩きします。

柘植さん
私のニセ科学問題への考えは改めてまとめるつもりです。
「会社の命令なら良心に反することもする」は少し違う問題だと思います。

柘植さんの発言

> 邪魔をするのはほどほどにしていただければと思います。

私は、もし分析化学会近畿支部の企画で「ニセ科学問題」を取り上げる案が出て意見を求められるようなことがあれば否定的なことを言うつもりでしたから、まさしく邪魔をする気になっていました。

柘植さんの

> 社会的規範基準というのは、否応なしに「善悪判断」であり、そして「レッテルはり」的なものです。

という言葉と共に、「邪魔するな発言」も柘植さんの真剣さを読み取る鍵になりました。

Posted by: ここの管理人 | 2007.08.30 at 10:35 PM

上の私の発言で不適切なことを引用していたので一部削除しました。

Posted by: ここの管理人 | 2007.08.31 at 04:01 AM

こんにちは、津村さん。

>私のニセ科学問題への考えは改めてまとめるつもりです。
>「会社の命令なら良心に反することもする」は少し違う問題だと思います。

 ご自身で考え方をきちんとまとめて見られるのは良いことだと思います。なんて言いますか、私も最初から「社会病理」なんて意識があってそこからニセ科学批判がはじまったわけではないんです。マイナスイオンの話が広がっていく過程とか、血液型性格診断の話が固定化していく流れとかを調べたりしているうちに、「なんだか社会全体におかしなことになり始めているのでは」なんて思い始めたわけですね。

 最近の人文学のほうでは「象徴的貧困」なんて言葉で表されているみたいですけどね。消化しきれないほどの情報にさらされることで、人間の持つ想像力やらイメージ力が情報が少なかった時代に持っていたものよりも、さらに貧困化している現象のことをさしています。

Posted by: 柘植 | 2007.09.01 at 04:51 AM

 管理人さんがおっしゃった「確執」の中身が具体的にされましたので、情報を補足しておきます。
 「確執」の本当の原因は、向こうのページの制作者が以前勤めていた企業が、2005年の12月に、公正取引委員会の排除命令を受けたことにあります。私に対する批判を大々的に始めたのは、ちょうど公取の調査が始まった時期に一致しています。どうも、私の差し金で公取が動いたと勝手に邪推して始めたようです。私を叩けば公取に対抗できると思い込んだようです。実際にはそんなことはないのですが。
 相手とは、講演会だか講習会の時に顔を合わせ、その後、直接のメールのやりとりが数回あった後は、全く無しのつぶてでした。それがいきなり自費出版をしてまで批判活動を始めたので、何があったのかな?と思っていたら、公取が動いていたんですね。

Posted by: apj | 2007.09.05 at 11:43 AM

 訂正です。
「勤めていた」と書きましたが、間違いかもしれないので訂正します。
正確には、その制作者がリーダー的な地位で関わっていた(∵メンバー相手の講習会の講師を何回も勤めている)、磁気活水器マルチ商法の会社が排除命令を受けたということです。
 マルチの場合は、勤務ではなく、販売者が自営業者としての形になることが多いので、訂正しておきます。

Posted by: apj | 2007.09.05 at 11:45 AM

apjさん、簡潔な説明ありがとうございます。

Posted by: ここの管理人 | 2007.09.05 at 09:53 PM

 公取が動いたことが主なきっかけとなって、自費出版氏が私やきくちさんや柘植さんにたいする中傷を続けていることについて、やはり「ニセ科学批判」が原因の「確執」であるとおっしゃいますか?

Posted by: apj | 2007.09.08 at 12:11 PM

apjさん、私はそのようには思いません。

Posted by: ここの管理人 | 2007.09.08 at 09:10 PM

「確執」の件で追加情報です。
 私が独立当事者として訴訟に加わるため、私の代理人弁護士とともに裁判所に行って口頭弁論に出てみたら、原告は私を訴えるつもりがないと明言しました。大学を名誉毀損で訴えておいて、問題の文章を書いた張本人が法廷で目の前に居るのに訴えないというつもりらしい。本気で「確執」をやる気かどうかすら疑問な状態(というかこんなんで訴訟を続けられるかどうかが謎)でした。
(まとめはこちら)
http://www.i-foe.org/h19wa1493/index.html
http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/action/

Posted by: apj | 2007.09.15 at 01:11 PM

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