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2007.08.21

柘植明さんのコメントへの返信

この記事を読む前に必ず 「ニセ科学」関連・本当の最終記事 を読んでください。

前々記事に対して柘植明さんから コメント をいただきました。

こんにちは、皆さん。

 河合先生にメールで連絡を取ろうかどうか悩んでいる所なんですけどね。
 私なりの考え方を説明しますと、社会的規範と学問的規範というのがあるわけです。でもって、学問というのが社会の中の人の営みである以上、学問的規範は社会的規範の中にあるわけです。
 まず社会的な倫理規範として「定かでないことを定かであるかように喧伝すべきでは無い」という規範があるわけです。そして学問的な規範として「定かでないものがあれば、それを定かにするために努力すべきである」という規範があります。問題は、学問的規範がありそれに従うべきだからといって、社会的な規範をおろそかにして良いわけでは無いという事です。
 本来、この2つの規範は矛盾しません。なぜなら学問的規範から導き出される結論は、「もっと研究しよう」であり「もっと社会に喧伝しよう」でもなければ「社会に喧伝する者を諫めるのは止めよう」でもないからです。ところが、往々にして、ここに2つの規範があり、学問的な規範は社会の倫理規範の下位に存在するということが忘れられてしまう事があるわけです。そうすると「定かでない事柄を定かであるかのように喧伝するものを諫めるようなことをすれば、学問における定かでない事を定かにするという営みをレッテルを貼るかたちになって阻害するから、学問的にはやるべきでない」となってしまうわけです。
 学問は社会の中で行われる営みである事を考えるなら、社会の規範が守られてこそ学問もまた守られる事は明白なのですけどね。

コメントありがとうございます。私の考えを書きます。
その前にお断りしておきますが、これはウェブを利用した非公式な意見交換であって、日本分析化学会内での議論ではありませんよね。柘植さんは中部支部の常任幹事、私は近畿支部の幹事ですが、発言はそれぞれ一会員としての考えを述べているにすぎないと解釈しています。学会の意思決定に結びつくような議論は公式な会議の場で行われるべきと思います。

ただし、もともと「ぶんせき」誌への投稿が契機となった話題ですので、 分析化学会は「ニセ科学」と向き合うか の記事のURLを 分析化学会掲示板 にて告知しています。

「定かでない事柄を定かであるかのように喧伝するものを諫めるようなことをすれば、学問における定かでない事を定かにするという営みをレッテルを貼るかたちになって阻害するから、学問的にはやるべきでない」というのは河合さんのご意見ですね。(正確な要約ではないような気もしますが・・・)

私は環境ホルモン問題で苦労しましたから、むしろ逆の考えを持っています。例えば、「定かでない環境ホルモンの害作用を一般人に喧伝して研究費を獲得する行為は社会を混乱させるから諌めるべきである」と考えます。つまり、学問(学者)の自由よりも社会的な公益優先の発想をする場合があります。

その文脈で、「一群の製品等を『ニセ科学』と分類する動きに学会が関与することが公益にかなうだろうか?」と考えます。

「一般市民の科学リテラシーを高める」目的であれば、既に科学史的に評価の定まったもののみを教材として用いれば良いのではないでしょうか。現在流通しているものをターゲットにすれば関心を引きやすいのは確かですが、「ニセ科学」に分類されてしまう当事者はたまらないでしょう。
公平な基準のもとに標的になるならまだ納得できるかもしれませんが、公平な情報収集には膨大な労力や費用がかかりますから、結局は恣意的な選定になってしまう恐れがあります。

もう一つの観点「ニセ科学による被害を防ぐ」に関して。
個別の事項に対して科学者個人が発言することは本人の見識に基づいて自由に行われるべきですし、優れた活動をしている人も多くいます。ただ、この目的のためなら「ニセ科学」という分類を作り出す必要はなく、個別の対応でよいのではないかと考えます。ましてや学会が「ニセ科学」という分類を推進する必要性はさらに低い(というか有害な可能性もある)と思います。

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Comments

ちょっとモノサシ(規準)をどのようにお考えなのかがわからないのですが・・・・。

具体例として「水伝問題」を取り上げる必要はなかった、というご意見なのでしょうか?

さらには夏休みの自由研究用に「ご飯セット」が多数売れたというような事が問題にならないのでしょうか?

わたしは、問題になると思うし、学会が阻止行動に出たのはごく当たり前のことではないかと思います。

つまり、個別・具体的な事例に対応できないのはヘンだと思うわけです。

酔うぞ拝

Posted by: 酔うぞ | 2007.08.21 09:40 PM

酔うぞさん、おひさしぶりですね。

分析化学会が所定の手続きを踏んだ上で個別の問題について取り上げるのはかまわないと思います。

また、物理学会の活動については何もコメントするつもりはありません。

分析化学会が「ニセ科学問題」に取り組むことをまず決めて、それから「ニセ科学」に該当するものを選別するというのであれば、かなり危ないと感じます。

Posted by: ここの管理人 | 2007.08.21 10:18 PM

こんにちは、返信ありがとうございます。

この一年くらい「ニセ科学の蔓延」ということを考えていて、一つ気がついたことがあります。それは社会と学会と研究者の関係のようなものです。

菊池先生のブログなどでは「社会の健常な保守性」とか書きましたが、もともとの社会というのは新規なことに対して拒絶反応を示す程度に保守的であったのではないかということです。研究者がきちんと実験結果などの証拠に基づいて「これは存在します、こういう現象が起こります」と言っても、その証拠が難解であるなら「そんな訳のわからないことは、自分には証拠かどうか判断できないから受け入れない」という程度に保守的であったのではないかと思うのです。

そういう社会において学会というところの役割は、「とりあえず証拠の吟味をするまでは否定も肯定もしない」という規範を持つことで、新規なことを拾い上げ、理解して肯定する仲間を増やして、社会に新規な(そして正しい)ことを受け入れて貰い易くするという役割になると思うわけです。

ところが、「マイナスイオン」にしろ「血液型性格診断」にしろ、学会にきちんとした論文などは提出されず、一般向き書籍の出版とTV番組がそれを取り上げるということで、瞬く間に社会に「存在するもの」としての認識が広まってしまっているわけです。つまり、社会の保守性は崩れ去っていて、その結果として「定かでないものを定かであるように言ってはならない」という社会の倫理規範すら危うくなっているわけです。

そして、これらのニセ科学の蔓延にたいして多くの研究者が「とりあえず証拠の吟味をするまでは否定も肯定もしない」という規範にしたがって沈黙してきたわけです。学会に報告もされなければ、この規範に従う限り証拠の吟味はできず、沈黙するしかないからです。そして、社会はこういう研究者の沈黙を「その新規なものの存在に肯定的である」と捉えた面があるわけです。

「研究者はニセ科学に対してもっと発言しなくてはならない」という呼びかけは、学問としての「「とりあえず証拠の吟味をするまでは否定も肯定もしない」という規範の否定ではなく、社会と対するときは社会の倫理規範である「定かでないものを定かであるように言ってはならない」にきちんと基づこうという意味で捉えて欲しいわけです。

Posted by: 柘植 | 2007.08.22 04:10 AM

多くのかたが誤解されているのですが、物理学会でシンポジウムを行なったこと自体は、別に「学会としてニセ科学対策に取り組んでいる」という話でもなんでもありません。あれはごく普通の手順を踏んだシンポジウムであって、学会員が提案し、それが採択されただけです。
 
学会が組織として何をするかということと、研究者個人が何をするかということとはまったく別です。
 
学会が「ニセ科学」を認定するのか、という点について言うなら、一般論としてはやめたほうがいい。少なくとも、「あれはニセ、これはニセ、これはグレー」とかいう「ニセ科学分類装置」として学会が機能するべきではありません。
しかし、それを絶対視して、「ニセ科学かどうかについて、学会としては決して発言しない」という極端な態度も社会的に容認されないでしょう。あまりに問題が深刻なら、学会としての声明が必要となる場合もあります。
 
それから、「ニセ科学」というカテゴリーは必要であると強調しておきます。もちろん、使いたくない人に強要するようなものではありません。

Posted by: きくち | 2007.08.22 12:04 PM

「ニセ科学」というカテゴリーの必要性について言うと、「ニセ科学」を社会の病理だと考えるからです。この点は、柘植さんが繰り返し強調しておられることと同じだと思います。僕などが危惧する社会全体の非合理化であるとか、柘植さんの言われる「健全な保守性が失われている」みたいな話とか、これらは科学の問題というより社会の問題なわけです。
個別の事例を個別に議論することは重要なのですが、それだけでは見落とされてしまう「社会の病理」をどう考えるか。それは科学者の考えることではないと考えるなら、個別事例だけに集中すればいいのですが、僕はそれではだめだと考えています。個別事例をいくら叩いたってどうしようもない部分がある。それらを全体として捉えるために、少なくとも僕は「ニセ科学」というカテゴリー名を必要としています。
柘植さんの分析化学会での意見も、学会が個別事例にいちいち対応せよ、ではないと理解していますが。

Posted by: きくち | 2007.08.22 12:39 PM

こんにちは、皆さん。

 私は基本的に「ニセ科学の存在」よりも「ニセ科学の蔓延」の方を問題視しています。ニセ科学的な言説というのは明治のころからあった訳でして、火の使用を覚えればたまには火事も起こるのと同じような面があると思うわけです。

 ただ、血液型性格診断を国民のほとんどが「何らかの根拠があるのだろう」と思っている状態とか、社会的責任のある大手の家電メーカーがマイナスイオン商品を製造販売するとかいう状態になるのは、社会の機能の何かがおかしくなっている様に思える訳です。

 私は、ニセ科学の蔓延を糖尿病網膜症に例えたりします。糖尿病で血流が悪くなった網膜に弱い新生血管ができて、それが破れて出血することで視力が損なわれる症状ですね。症状は目に現れている訳ですが、じゃあ、目の病気として目だけ治療すれば良いかというと、もともとの糖尿病を治さない限り、目の治療だけでは追いつかずに失明するだけでなく、いずれは死亡にいるでしょう。ニセ科学の蔓延という問題を「自然科学の中のことだ」として「自然科学の中で解決する」というのは、糖尿病網膜症を目の治療だけでなんとかしようとしているのに等しいと思います。ただ、糖尿病網膜症で失明の危険にさらされた患者さんは、きちんと糖尿病が原因である事を告知して、治療を勧めると本気で生活改善も含めた治療にも取り組むわけです。

 ニセ科学の蔓延の元にある社会病理とはなにかを別に自然科学者に限らず多くの有識者で考えてみて欲しいわけです。

Posted by: 柘植 | 2007.08.22 06:02 PM

> 現在流通しているものをターゲットにすれば関心を引きやすいのは確かですが、「ニセ科学」に分類されてしまう当事者はたまらないでしょう。

「そのニセ科学」による被害を防ぐ以外の目的で、ある特定のものをニセ科学と名指しすることを正当化するのは難しいように思いますね。

Posted by: ショート | 2007.08.24 11:13 AM

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