井亀あおい「アルゴノオト」より
私にとって「書く」という行為の原点になっている本から、重要な部分を紹介。
この著者は1977年に17歳で自ら命を絶った。死後、12冊のノートにびっしり書き込まれた「アルゴノオト」と題する日記が見つかった。(アルゴノオトとは、ギリシャ神話にあるアルゴ号---金羊毛を探すため航海に出た船---の乗組員のこと。)
句読点も誤字も一切改変せずに出版されているが、驚くほど文脈が整っており、ミスが少ない。「著者は、創作類はむろんのこと日記においてもいささかの曖昧さをも残さぬ厳密な書き手であった。」(本の編集者)
この人が今のブログ全盛時代に生きていたら、絶対違う人生を歩んでいたろうなと思う。
以下引用
「アルゴノオト あおいの日記」(葦書房 昭和54年刊)
1976年8月31日付けより(著者16歳)
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火事になって家具はもう助からぬと分っても私は、アルゴノオトだけは持って出るだろう。私はこのノオトをなくしてしまったらどうするべきか見当がつかないのだ。というよりは、このノオトが自分そのものであると思えて、それをなくした時自分は存在しないのだという気がする。中学二年の秋、あの絶望への入口にあって私は、家に帰ればノオトに向かえると思いつつ登校したのだ。当時も現在も、それ程重大なことを書いている訳ではない。だがこれがあるからこそ、過去に私が存在し、現在もそれと同一人物が存在するということを確実に受けとめられる。さらに過去の想い出というものとそれに対する自分を思い起すことが出来る。口に出して言えば気が晴れるようなことを言えずにいる時、書くということは少なくともその労力にみあった価値がある。アルゴノオトがなければ、金羊毛を探すにも探せぬ。このノオトは、無言の船員たちである。手ごたえがないのは止むを得ぬ。だが確かに聞いてはいてくれるのだ。書くということは常に私にとっての救いである。書くということがなければ私は波に翻弄され、金羊毛のことすら忘れはてるだろう。アルゴノオト、すなわちアルゴ号の船員達は、私の知らぬ間に私を良い方へと運んでくれるのだ。アルゴノオトがなければ私の成長?は有り得ぬし、かつての酷い状態から脱出出来なかったろうしもっと悪くもなり得たのだ。最初の頃もし書き始めていなければ、この方向には来ずに「サブ・カルチャー」の悪い方へと行っただろう。
私には書くということが一等身近である。読むことはその裏がえしなのだ。私から本と鉛筆を取り上げてしまったらあとには何も残らない。単なる外形だけだ。読むことと書くことの中においてのみ私は真実に自分の存在を知るのだ。
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