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July 2004

2004.07.31

2004年7月の記事目次

アクセスとリンクを出稼ぎに行く
たぐいまれなゼロリスクblog
軸足は非公開のネットに置く
井亀あおい「アルゴノオト」より
日記・つぶやき・思いつきは書かない
不気味な匿名よりタチの悪いニセ実名
ただの匿名よりずっと不気味な匿名
普通の人が考え付けるネタは早々に終わる
仕事関係のことを突っ込んで書く私の工夫
匿名ブログが勤務先で問題にされたら
「インターネット世代」をかいま見た?
何が好きな13歳ならこの仕事に向くか
「なぜウェブログを書き続けるのか」モデル

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2004.07.30

アクセスとリンクを出稼ぎに行く

 最近一般的な話が多くなりがちだけど、本題の「専門情報サイト公開法」へ戻してみる。テクニカルな話。
 私の 勝手な構想 では、近い将来さまざまな現場で働く同じ分野の専門家がサイトを作ってリンクしあうことになっている。しかし、最初は全部弱小サイトだ。弱小サイトが集まって閉じた相互リンクを張りあっても、あまり人目につかない。(ネットサーフィンで発見される可能性という点でも、検索エンジンの表示順位的にも。)広く読んでもらうためには、サイト群の外部からリンクされる必要がある。
 弱小専門情報サイト群の全体的な被リンク数やアクセス数を上げるには、どうしたらいいか。
 一つの方法は、それぞれのサイトが何か「副業」を持って、別分野のページからのリンクを集めることだと思う。本業がマイナーな上に副業までマイナーだったら効果は見込めないような気もするけど、メジャーな分野のサイトを作っても、既に他サイトの情報が充実しているから、リンクしてくれるところは少なそうな気もする。
 まあ、メジャーでもマイナーでも、自分にとって無理なく労力をかけずに作成できる内容があれば、ぼちぼちと公開すればいいのでは。

 私も最初からこんなことを考えていたわけではないが、現実問題として 分析化学のページ へ「分析化学」でリンクしてくれている有力サイトはYahoo! Japanだけだ。IT関連以外の技術系の多くは同じ事情---読み手のニーズはあっても、書き手は非常に少ない---ではないだろうか。
 個人ページの公開法について を書くようになって、やっと被リンクとアクセス数が増え始めた。Yahoo! Japan へも、そのようにして私のサイトを見つけたどなたかが他薦してくださったのではと思う。ある日突然Yahoo! Japan から「リンクします。不都合があれば連絡してください」という主旨のメールが来た。
 このブログを開設してからは、さらにアクセスが増えた。ブログは、読んでもらえる仕掛けがいろいろ用意されていてありがたい。
 芸術とかスポーツとか旅行とか園芸で副業できるほどの蓄積はないから、唯一、普通の人よりも長めのネット経験だけを切り売りしている。・・・と書くと、極貧で内職みたいなイメージになってしまうが、ネット関係の話もけっこう楽しんでいる。

(リンクしてくれるところならどこであろうとありがたいけど、訪問者層の相性はあるみたい。私の場合、木村剛さんからリンクされた 直後に、残留農薬分析の専門家数名からメールをいただいた。木村さんと残留農薬の間に関係はなさそうだが、ビジネスマンに幅広い人気があるからだと思う。逆に、 個人ニュースサイト群からリンクされた時 は、アクセス数は多かったけど、専門家からは音沙汰なしだった。)

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2004.07.27

たぐいまれなゼロリスクblog

 前の記事 で「結局、ゼロリスクで満足感だけ得ようというのは、かなり虫がいい考えかもしれない」と書いた。ところでよく思い返したら、ゼロリスクに近く、手間もかかっていないにもかかわらず、それなりに読まれて続いている珍しいブログがあった。
 「公開の場で書きたいけどリスクは負いたくない、手間もかけたくない、でも読者を獲得したい」という難しい要求を持つ人には参考になると思う。

 そのブログは、Tristarさんの CONCORDE 。私はココログを始めた直後からこのブログを愛読している。
 CONCORDEのテーマは「反ブログ・フォーラム至上主義」。「"その他大勢"の一般人は、ブログなんて書いてもろくに読んでもらえない。それよりもフォーラムに集まって話しましょう」という主題。私のブログは扱う範囲が狭いけど、CONCORDEも負けず劣らずマイナーなテーマだ。

 このTristarさん、徹底的にリアルの自分の臭いを消している。私は全部の記事を読んでいるが、いまだに年齢も職業も家族構成も居住地域も全くわからない。いつどこへ出かけたなんて行動も、いっさい出てこない。知り合いらしき人による書き込みも皆無。
 フォーラム至上主義を標榜するなら、フォーラムの魅力を具体的に語ったら?と思ったりする。いったいどこのフォーラムで、どんなハンドル名で書いてるんですか?と ずばり質問 したこともあるが、完全にノーコメントだった。

 記事の書き方もきわめて慎重だ。たとえば、荒れているブログや掲示板に嘆息する発言がときどきあるけれど、絶対にリンクなし。どこのことか特定せず、「某所」とか書かれている。もちろん他者に対する批判はほとんどない。ネットで自分に降りかかってくるかもしれない色々な災厄を案ずる発言が多数ある。( どうか、どうか...から続くいくつかの記事など。)

 CONCORDEは根本的なパラドックスを一つ抱えている。「"その他大勢"はフォーラムへ」の主張の根拠は、普通の人がブログをやっても 《コメント(0)|トラックバック(0)》の死屍累々を突きつけられることになる ・・・という点にある。だから、CONCORDE自体が、「死屍累々」の見本でなければならない。実際に、このブログへのコメントとトラックバックはかなり少ない。
 が、コメントもトラックバックも滅多に来ないブログなんて、続ける気がするだろうか。Tristarさんは、誰からも読まれなくても平気で書き続けられる人なのだろうか。
 実は違う、ということは、Tristarさん自身が何度も告白している。読まれたい、アクセスされたい。そういう正直な気持ちが随所に書かれている。(例:「ブログする自分」を棚卸ししてみた

 ならば、一般人なりの努力の仕方というものもある。それは「マメになること」。自分からあちこちのブログへ出向いてコメントする、トラックバックする、特に才気がなくても、いわば足でつながりを作っていく、そういうマメなブロガーだって多いではないか。
 ところが、Tristarさんはほとんどそういう行動には出ていない。ひたすら「待ち」の姿勢。マメでもない、リスクも取らない、それでもいつか自分のブログに共感する誰かに見つけられることを期待して待つ。そういう煮え切らない姿勢自体が、このブログの突っ込みどころ。実際、これまでにも何人かがこの点を指摘した。(Tokyo Forum 近所の人ん家に出かけてみよう! とか、ずばり Tristarさんは「自分のブログを読んで欲しい」んですか? というコメントとか。)でも、あんまり叩いたら今にも消えそうなせいか、みんな深くは追求しないんですね。

 そんなブログが既に半年続いていて、注目が集まった記事もいくつかあったみたいで、最近はなんか 始めたからには細くても長く続けてゆきたい という決意表明も出たりして、しかも「ココログプラス」のアクセス解析を使っている。ううむ・・・すごい・・・。
(ちょっと解説:ココログプラスのアクセス解析は、訪問者のIPアドレスやアクセス時刻を記録しないので、非常に 訪問者フレンドリー 。でも使用料がかかる。忍者システムズ等を使えば生々しい訪問者データを無料で取れるのに、それをしないでココログのアクセス解析を使うとは、なんと紳士的な・・・それに、ちゃんと自分のサイトを管理する姿勢の表れではないか・・・とココログスタンダードの私は感動するのでした。)

「公開の場で書きたいけどリスクは負いたくない。自分から他人に働きかけてまわるのもイヤ。でも読者を獲得したい」と考える人は非常に多いはず。しかしそれを堂々と言う人は滅多にいないし、ましてや実行してしまう人は極めて珍しい。少なくとも私はCONCORDE以外の例を知らない。
 私のブログは実名でリスクを負いながらやっているから長く続けられないけど、ほとんどリスクを取っていないCONCORDEは、この独自路線で長く続いていくのかもしれない。「なかなか言えないホンネ」を言ってくれるサイトには読者が付くものだ。このホンネの語り方は一つの芸になっているし、ますます磨きがかかっているように見える。

【補足1】
 Tristarさんが自分自身についてほとんど語らないのは、リスクを取りたくないという気持ち以外に、「社会的属性による先入観から自由でありたいから」という動機も強いらしい。(ただ、画面に映る文字のみで。

【補足2】
 他者に対する否定的意見をほとんど書かないTristarさんが例外的に書いた相手が3名。木村剛さんに向けた それは「ブログの力」ではなく、 、国枝まさみさんに向けた 群衆の中の孤独-ひとりでウェブに立ち向かうということ 、そして私に向けた ◎実名は隠す【強く推奨】--壊されないために、そして、壊れないために消えた(消された)人の声は見えない
 この人からちょっかい出されるってことは、「超優良絶対安全サイト」と認定されたようでうれしい(かも)。

【補足3】
 で、このブログに対してはトラックバックとコメントは遠慮したほうがいいのだろうか?盛況なブログになってしまったら、独自路線は単なる嫌味に変わる。私は既に何回か「ゼロ記事の死屍累々」を邪魔してしまっているので、今回はひっそりとリンクだけにしておきます。

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2004.07.24

軸足は非公開のネットに置く

 「ネット上で何かを表現したい」という強い欲求を持つ人たち--- ネットな人 ---が、ある程度の比率で存在するらしい。一方で、ウェブで何かを発信すれば大なり小なりリスクを負わなければならない。リスクを支払って欲求の充足を買うのがネットな人たちの日常とも言える。
 どうせ買い物するなら賢く買いたい。マネジメント法について考えてみる。

 リスクを減らすには、主に三つの方法があると思う。
 1.匿名を守り、絶対にリアルな自分と結びつかないよう心がける。
 2.非公開の場で書く。
 3.リスクを招きそうなこと(仕事・個人の情報や他者への批判など)は書かない。

 これらには、それぞれ限界もある。
 1---匿名とはいえ、固定ハンドルネームを長く使うほど、リアルの自分との結びつきを消しておくのは難しくなる。(参考:将来もしかしたら実名を名乗るかもしれないかたへ)2---非公開の場で書くのは、それだけ「表現した自分」が届く範囲を狭めるわけで、欲求の充足という面では不満かも。3---リスクを招きそうなことを避けてばかりいると、実際なにも書けない人も多いと思う。それに、全くリスクを取っていない個人サイトなんて、よほど内容が充実しているとか親しい間柄でなければ、わざわざ読む気にならないのでは。
 結局、ゼロリスクで満足感だけ得ようというのは、かなり虫がいい考えかもしれない。公開の場で書く人の多くは「匿名」という道を選んで、書く内容に関してはある程度リスクを取っている。
 急速に普及してきたソーシャルネットワークは、「非公開の場」でありながら未知の人との出会いも容易らしいから、リスクを減らして満足感はあまり損なわない選択肢として合理的なように見える。(参加していないから本当のところは知りません。)

 以上は一般的な話。
 ここからは、「組織に属する専門家が専門分野について語る」という主題に関して。
 仕事のことを書くのが前提だから、3は最初からかなり限定される。専門性が高ければ高いほど、1も難しい。となると、2しか残っていない。非公開の場で書くこと。
 私について言えば、日頃書いているものの全体量の中で公開の部分はほんの一部だ。このブログを始めてからはかなり公開の比率が増えたが、それでも半分を超えたことはない。

 非公開の部分を書いている場は、いくつかのメールグループと掲示板、何人かのメル友。日記・つぶやき・思いつき は、それらの場で書いている。でも私は、日記・つぶやき・思いつきだけでは飽き足らない。長めの文章でまとまった知識や考えを表現したいこともある。そういうことをするとなると、小さなコミュニティはかえって不自由だ。話の流れというものがあって、独立した長文は読まれにくいし、たぶん迷惑だから。
 私が公開するのは、そのような文章。インターネットで公開すると、まったく知らない人からのコンタクトもあったりして面白い。
 でも、あくまで軸足は非公開の部分のほう。日記・つぶやき・思いつきを書いていくかぎり、たぶんネタは一生尽きない。読んでくれる人がいなくなる心配もない。私だって他のメンバーの日記・つぶやき・思いつきを読んでいるんだから、持ちつ持たれつだ。そういう付き合いができる程度の人数としか交際しない。

 まとめると、私のリスク管理はこんな風になっている。
・自分に「ネットで自己表現したい」欲求があることを認識する。
・表現したいものを「公開」「非公開」に仕分けする。
・公開は実名で。かなり吟味してから。
・非公開のものは、どのコミュニティへ出すかそれぞれ考える。
 (非公開コミュニティを複数持っておく。)
公開するのはネタが尽きやすい部分であることを認識する。
 無理やり公開を続けようとはしない。

 なお、以上の話は、ネットで自己表現しても個人的な満足以外に実益がない人の場合です。
 比較的組織に縛られていない研究者・教育者は組織からの制約というリスクが少ないし、さらに個人事業主・文筆家・タレント・政治家などは、ネットで自己表現することで実益がある場合が多いでしょう。そういう人たちはリスクを多めに取ることができるし、実名で情報発信する動機もあります。
 学生というのは微妙な立場ですね。将来自分がどちらの立場になるか未確定ですからね。> 鈴木聡さん

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2004.07.23

井亀あおい「アルゴノオト」より

 私にとって「書く」という行為の原点になっている本から、重要な部分を紹介。
 この著者は1977年に17歳で自ら命を絶った。死後、12冊のノートにびっしり書き込まれた「アルゴノオト」と題する日記が見つかった。(アルゴノオトとは、ギリシャ神話にあるアルゴ号---金羊毛を探すため航海に出た船---の乗組員のこと。)
 句読点も誤字も一切改変せずに出版されているが、驚くほど文脈が整っており、ミスが少ない。「著者は、創作類はむろんのこと日記においてもいささかの曖昧さをも残さぬ厳密な書き手であった。」(本の編集者)
 この人が今のブログ全盛時代に生きていたら、絶対違う人生を歩んでいたろうなと思う。

以下引用
「アルゴノオト あおいの日記」(葦書房 昭和54年刊)
 1976年8月31日付けより(著者16歳)
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 火事になって家具はもう助からぬと分っても私は、アルゴノオトだけは持って出るだろう。私はこのノオトをなくしてしまったらどうするべきか見当がつかないのだ。というよりは、このノオトが自分そのものであると思えて、それをなくした時自分は存在しないのだという気がする。中学二年の秋、あの絶望への入口にあって私は、家に帰ればノオトに向かえると思いつつ登校したのだ。当時も現在も、それ程重大なことを書いている訳ではない。だがこれがあるからこそ、過去に私が存在し、現在もそれと同一人物が存在するということを確実に受けとめられる。さらに過去の想い出というものとそれに対する自分を思い起すことが出来る。口に出して言えば気が晴れるようなことを言えずにいる時、書くということは少なくともその労力にみあった価値がある。アルゴノオトがなければ、金羊毛を探すにも探せぬ。このノオトは、無言の船員たちである。手ごたえがないのは止むを得ぬ。だが確かに聞いてはいてくれるのだ。書くということは常に私にとっての救いである。書くということがなければ私は波に翻弄され、金羊毛のことすら忘れはてるだろう。アルゴノオト、すなわちアルゴ号の船員達は、私の知らぬ間に私を良い方へと運んでくれるのだ。アルゴノオトがなければ私の成長?は有り得ぬし、かつての酷い状態から脱出出来なかったろうしもっと悪くもなり得たのだ。最初の頃もし書き始めていなければ、この方向には来ずに「サブ・カルチャー」の悪い方へと行っただろう。
 私には書くということが一等身近である。読むことはその裏がえしなのだ。私から本と鉛筆を取り上げてしまったらあとには何も残らない。単なる外形だけだ。読むことと書くことの中においてのみ私は真実に自分の存在を知るのだ。

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2004.07.21

日記・つぶやき・思いつきは書かない

 私が避けている三つの「き」について。

日記は書かない
 リアルタイムで書くと情報管理が難しいから。

つぶやきは書かない
 けっこうリスクも負いながら書いている(つもり)。だから、何かメッセージを含む文章しか公けにしない。

思いつきで書かない
 「自分でも何を言いたいのかよくわからないのですが・・・」といった逃げは打たない。「うまく言えませんが・・・」も極力避ける。

 「書く」ことは私の職能の一部だ。プロとしての能力を天下にさらしながら余暇活動するなんて、よく考えたら大胆な行動だ。
 「固すぎる」「おもしろくない」「文学的でない」と言われるのは全然怖くない。「論理的でない」「不明瞭だ」「見落としがある」は怖い。私が仕事で書くのは論文や報告書だから。
 自分自身の基準に照らして公開する価値のある文章を考え付かなくなったら、更新はしなくなる予定。ネタを探してまで続けることはしない。

参考リンク
 普通の人が考え付けるネタは早々に終わる や「ブロガーの燃え尽き症候群」関連。

blog(無相亭日乗)
「私のような凡人がブログをはじめると、いつネタがつきてしまうか。それがとても恐い。」「いまからネタが尽きたときのことを考えて、毎日ネタ探しをしておいたほうがよいのかなぁ、などと思いはじめた。」とのこと。
 えーと、私が前の記事で言いたかったのは、普通の人は燃え尽きて当然なんだから、潔く燃え尽きましょう、ということです。私も2ヵ月後にはほとんどこのブログを更新しなくなっている予定(未定)です。

ブロガーの燃え尽き症候群(Grace馨子の英国徒然雑記)
 「独白&信条発表型のブログ」と称しながら、「これを言いたいという記事をアップしなければ、という暗黙のプレッシャーを自分で自分にかけてしまい、自縄自縛になっている」とも。
 個人的な好みですが、「100%自分のために書いている」と言い切る書き手よりも、「読み手の目を意識している自分を隠さない書き手」に私は好感を持ちます。

ひたすら「つぶやき」です(瀬戸智子さん)
 教育者や個人商店主や著述業の場合は、色々な方法で自分のパーソナリティを見せるのも仕事のうちではと思います。「つぶやき」ならネタが尽きることはありませんね。

あらきけいすけさんの日記(7/13)
 「ブロガーに『燃え尽き症候群』? 備忘録なら毎日続く。」だそうです。
 えーと、あらきさんも教育者ですね。先生がたは青少年のために積極的な自己開示をして、生き方のお手本を示してくださるよう、期待します。

みんなが好き勝手なことを書いてるとウェブは破綻する(かも)(FlowerLounge)
への反応
有用な情報への到達を妨げているものは何か?(鈴木聡さん)
への反応
情報伝達における価値(ふじさわさん)
への反応
単に書きたいことを書くだけ,何かを伝えたいというモチベーションはない(少なくとも私は)(鈴木聡さん)

 まとめ感想&繰り返しですが、私は「無目的・自分のため・読者の目は意識してない」系の発言よりも、「ネットを全体として使いやすいものに」「有益なものに」「自分はこういう目的を持っている」系の発言に親和性が高いです。完全に好みの問題ですが。

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2004.07.17

不気味な匿名よりタチの悪いニセ実名

 オフラインでこちらを知っているという人から匿名でコンタクトされると気味が悪い。そんな体験を ただの匿名よりずっと不気味な匿名 で書いた。
 この事件の裏では、実在の団体の一員と称する実名っぽい名前の男がメールで匿名のAさんを脅していたことが明らかになった。身分詐称だから、その気になれば違法行為として告発することもできたのではないか。
 ここまで悪質なことをする人はまれだろうけど、ハンドルネームを使っている人たちに、私はひそかな要望を持っている。ニセ実名はやめてほしい。実名っぽいハンドルネームを名乗るなら、プロフィール欄などで、実名でないことを書いておいてほしい。
 ハンドルネームを名乗る人には、実名を名乗りたくない理由がある。そういう事情を自ら抱える人なら、ただの平凡な人が実名を名乗るのにどれだけ覚悟と勇気が必要かわかるでしょう。ニセ実名が増えると、そういう精一杯の覚悟が報われにくくなる。
 まあ、私の言うことに強制力はありませんけど。それに、実名っぽいハンドルの人の大部分は、私が書くまでもなく、実名でないことを自ら明らかにしておられます。

 前の記事に 山本洋三さんからコメント をいただきました。
 実在の団体や実名らしきものを名乗るところまで行かなくても、リアル社会をネットに持ち込んで偉そうにする人は掲示板でよく見かけるとか。私も何回も見てきました。自分がそういうことをしてしまうのがイヤというのも実名を名乗る理由の一つです。(私がネットで実名を名乗る理由1 の最後のほう。)
 酔うぞさんいわく

匿名はシリアスな論議にはリスクが高い、というのがわたしの結論です。

 これはわかります。ネットにはまっていない普通の人の感覚では、「どうせ匿名でやっている遊びなのに、リスクってなんやねん。大げさな」でしょう。でも、匿名だからこそ、ネットの世界に深く入り込んで自分の能力や時間を相当つぎ込んでしまう、その膨大な努力が軽視されるのは耐えられない、そういう感覚を、私も持ったことがあります。(ハンドルネーム時代に。)実名では世間体というものがあるので、かえってそんなに深く入り込んだり感情的になることを抑制しています。

 話がそれました。ニセ実名はやめてほしい。これがこの記事の主題です。

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2004.07.15

ただの匿名よりずっと不気味な匿名

 ネットの暗がりに魔物を見たような気がした。そんな怖い体験を書いておく。私の15年ほどのネット歴の中で、あれほどゾッとしたことはない。

 私がネットで実名を名乗る理由2 で書いた事件の裏側で起こっていたことだ。読みに行ってもらう必要はありません。以下の文章だけで全貌がわかるよう、かいつまんで書きます。
 この一件は、私が所属していたある専門家団体でのできごと。会員Bさん(女性)が、ある医薬品に深刻な害があるという内容の小論を書き、団体がホームページで掲載した。その小論を問題視した匿名の女性Aさん(個人ページの開設者)が、団体の掲示板に、討論を申し入れる書き込みをしてきた。団体はメーリングリスト内で激しい議論をした末、掲示板を閉鎖し、「時間が経過した文章は削除する」という方針を急に作ってBさんの小論も削除した。結局、団体からAさんへの公式な回答は最後までなかった。Aさんが匿名だからという理由だった。

 発端から終息まで約1ヶ月半もかかったこの一件の間、団体のホームページ管理者がAさんにメールで応対した。その中でAさんは、団体の意思決定をする会議(オフライン)で話し合われた内容を知っていることをほのめかした。
 このことが、団体内でのAさんへの印象を決定的に悪くした。
 ただの見ず知らずの匿名と、オフラインでこちらを見ることができる立場の匿名とでは、まったく意味が違う。団体の会議は役員10名程度で構成されていて、そこでの内容がわかるということは、10名のうち誰かと直接、または家族や同僚を介して知り合いである、ということを意味する。そんな近いところにいる相手が、まったく名乗らずにメールをよこしてくる、これは非常に不気味なことだ。こちらからは相手の姿が見えないのに、どこからか見張られているような気分。

 リアル社会で近い場所(物理的な距離だけでなく人間関係も含む)にいる相手にネットで接触するとき、匿名はものすごい圧迫感を与える。こういう匿名はただの匿名ではない。何倍も不気味な匿名だ。

 これは憶えておくほうがよい。(圧迫感を与える目的で利用する人がいませんように・・・)

 ところでさて、ここで終わってしまったら普通のマナー論だ。怖いのはここから。

 私は団体のMLで発言する一方、Aさんへの個人的なメールも実名で書いた。団体が最初から「匿名の人と対話しない」方針だったらすっきりしたのだが、当初は団体側も討論を受けて立つ姿勢を示していたのだ。それなのに、Bさんの小論は団体として擁護できる内容でないことがだんだんわかるにつれて、「匿名」が問題視されていった。これはダブルスタンダードだ、と私には思えた。
 私はAさんの主張の正当性を評価し、団体の対応は不誠実だと思うと伝えるとともに、「オフラインでこちらを知っているようなことを書いたらマナー違反だ」という苦言をメールした。

 Aさん(メールでも匿名)からの返事には、奇怪で驚くことが書いてあった。
 団体掲示板へのAさんの書き込みは長らく放置されていて、管理者が気づいて対応が始まるまでに2週間以上かかっていた。その間に、Nと名乗る男性らしき人物からメールが来たという。
 メールは「忠告」というタイトルだった。Nはありふれた姓で、「団体関係者」を自称していた。NからAさんへ何度も届いたメールには、
・団体の力は大きく、提供している情報は確実な資料的裏付けを持っている。
・あなたのホームページの内容には問題がある。被害が出たらどのような責任をとるのか?
・名誉毀損で告発されることになる。
といったことが書き連ねられ、団体の力を誇示するとともにAさんを脅す内容だったらしい。

 Nという名は、団体の名簿にはないものだった。その他いろいろな状況から、Nは団体とは関係のない人物で、団体の一員を名乗ってAさんを陰で刺激していたという事実が浮かんできた。それだけではない。Nがハッタリで書いたらしきことが、たまたま団体の会議で話し合われた内容と符合する部分があったために、Aさんが団体へのメールで言及し、Aさんが会議の内容を知っていると誤解された。つまり、Nは、Aさんを「ただの匿名」から「不気味な匿名」へと変身させた。

 Aさんは、Nが本当に団体の会員だと固く信じていて、私が否定してもなかなか納得してくれなかった。しかし、各メールの日付けを丹念に照合したり推理する作業の結果、最後にはNが会員でないことを信じてくれたようだった。

 Nが誰だったのか?それは謎のままだ。
 推測できるのは、Aさんまたは団体に対して悪意を持つ人物であるということ。医薬品に関する知識を持っていたし執拗だったから、面白半分のいたずらでなく、おそらく標的はAさんのほうだったと思われる。(Aさんのホームページは影響力が大きく、敵も多いとのことだった。)だとすれば、Nは頻繁にAさんのハンドルネームや関係キーワードで検索してネット上での追跡を行っていたと推定される。
 ・・・と想像するだけでゾッとした。ネットの世界には、こんな悪意が入り込めるすき間があるらしい。

 この一件で私が得た別の教訓。
 ちゃんと管理できない掲示板は開かないほうがよい。
 文字列だけで対話する難しさ。何か重大な事実が隠されていないか?

 今ごろこの話を思い出して書く気になったのは、竹中明夫さんの 様子(7/13付け) を読んだからです。

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2004.07.13

普通の人が考え付けるネタは早々に終わる

 Yahoo!ニュース ブロガーに蔓延する「燃え尽き症候群」 を読んだ。米国で、人気が集まりすぎてコメントを管理しきれなくなったり、読者の期待に答える記事を定期的に書き込まなければならないというプレッシャーに耐えられなくなって燃え尽きてしまうブロガーたちがいるという話。ときにブログは大変な労力を要する繰り返しの作業に変わってしまう。
 ココログのサービスが始まって半年ちょっと。日本でも大人気ブログの中に、更新が途絶えたものや書き手の気持ちが落ち込んだらしきものが出てきている。

 私には、子供の頃から繰り返し聞かされてすり込まれてしまっている言葉がある。母の言葉だ。
 母は本好きで、自分も本を出したいという思いをずっと持っている人。ベストセラーになった本はだいたい図書館で借りて読んで
 「誰でも一冊か二冊は何か書けるんやけどなあ。その次のが書けんのよなあ。」
と、つねづね言ってきた。私が 本でなく論文を書く道 に進んだのは、母にすり込まれたこの言葉の影響もあると思う。

 私のブログと分析化学のページに期待してくれている人がどの程度いるかわからないけれど、これまでにも何度か書いているとおり、個人のページは打ち上げ花火か変光星のように、一瞬だけ輝いたり光度が変わったりして当たり前。近い将来、ほとんど更新しなくなる時が来る。特にこのブログはニフティが会員に無料で提供し始めたのをきっかけに開設したもので、テーマも非常に狭く絞っているし、ネタが続くのは2ヶ月くらいかなと思っていた。その後も、あと2ヶ月くらいかなと思い続けて、現在も、あと2ヶ月くらいと思っている。
(ところで、母にはいつか一冊の本を出版させてあげたい。)

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2004.07.12

仕事関係のことを突っ込んで書く私の工夫

 誰にでも当てはまるとは思わないけれど、私が実践していること。
 「自分がウェブ上で書くのはこの範囲」と決めて、目立つところに掲載しておく。運用方針
 自分では、問題発言をする気は全然ない。でも、所属組織の関係者がたまたま私のサイトを目にしたら、そんな楽観的ではいられないかもしれない。どういうつもりでやっているんだとか、ききたくなるかもしれない。きかなくてもいいように、こちらから書いておく。
 「勤務先にはサイトを作っていることを伝えているんですか?」と質問されることがある。私は、 個人ページは本人だけの責任で作るもの と考えていて、勤務先に伝えているかどうか自体、ウェブ上では書かない。
 これは一つの考え方に過ぎず、むしろ勤務先で取り上げてもらってある程度の公認がもらえたほうがいい、という意見もあろうし、事例はどんどん公表してスタンダードが確立していくのに貢献すべきだ、という意見もあるかもしれない。

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2004.07.08

匿名ブログが勤務先で問題にされたら

 ブログで勤務先のことは一切書かない、という人も多いけど、結構書いている人も多い。匿名ならかなり自由に書けそうだな・・・と私は気楽に考えていた。
 ところが、秋月ナルさんの「顛末報告//日記再開のご挨拶。」を読んで驚いた。日記の記述が社内関係者の目にとまり、ちょっとした問題になったそうだ。秋月さんへの事情の聞き取りまであったらしい。
 「秋月日記」は環境分析の試験室の日常を描くウェブ日記だ。環境分析を実施している機関は多数あり、どこでも類似した日常業務が行われている。描写自体はリアルだが、それによって企業秘密が漏れたりすることはないと思う。また、日記の縦糸になっているのは「分析という仕事が好き」な気持ちで、これを読んだ人が秋月さん及び会社に持つイメージは、ほぼ間違いなくプラスの方向だと思う。
 ・・・ということが聞き取りでも認められたらしく、これまでどおり日記は続けられることになったようだ。それどころか、「会社HPに社員として日記を書いてはどうか」という提案まであったとか。
 これは面白い。実現すれば、分析業界どころか化学業界全体で初の画期的な試みになっていただろう。でも、秋月さんは断ったそうだ。その気持ちもわかる。私も、前の職場のサイト内でページを作成していたときは、熱心に更新する気にならなかった。
 ともかく、日記が続くことになってよかった。少なくとも私は、秋月さんの日記でたいへん助かっている。私のサイトは分析の専門家向けページとHP作成関連の一般向けページの2種類しかなく、一般向けに化学分析を紹介する内容は皆無なので、秋月日記のようなサイトが存在していることに感謝している。

追記(2007/1/22)
 このブログは移転しています。移転先:秋月日記。
 「顛末報告//日記再開のご挨拶。」の記事は削除されています。

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2004.07.07

「インターネット世代」をかいま見た?

 自分ではかなり ネットな人 だと思っているけれど、先週、「やっぱり私は旧世代のネット人かも・・・」と感じるできごとがあった。
 なぜか驚くほどのページビュー(PV)があって、28日と29日のPVは、 BlogPeople の「昨日のリスト配信ランク」で表示されるほどだった。とても一般受けするはずがない専門情報ページのおまけサイトが、4万5千以上の登録ブログ中で20位まで表示のランキングに入るとは、不思議な現象だ。(順位は両日とも9位だった。)

どんなところからリンクされた?
 ここまでのことがあると、何が起こったのか知りたくなる。このブログ自体はアクセス解析をしていないが、本館のログでリンク元を見たら、ネットで実名を名乗るための危機管理 から多数来訪があったことが判明した。さては、どこかのメジャーなサイトで、この記事をネタにして何か過激なことを書かれたに違いない・・・と思った。
 でも何しろアクセスログがないから、記事名でGoogle検索 をかけて一つ一つ見て回るという労力をかけなければならなかった。なんと、リンク元は40サイトほどある。ほとんどがブログのようだ。

記事タイトルだけが並んでいるブログ
 ところが、探しても探しても、どこにも「過激なこと」は書かれていない。それどころか、記事内容の紹介も感想も書かずにタイトルのみ書いているページが圧倒的に多い。
 私の記事だけでなく、いろいろなサイトの記事へのリンクが、注釈抜きまたは1行程度の感想とともにずらーっと並んでいる。こういうスタイルのブログがこれほど多く存在するとは知らなかった。

 日付けをたどってみると、最初にリンクしたのは 日々、思ったままに書き殴る。(6/25) らしい。ここはオリジナルの文章が中心のブログで、記事に関連した管理者独自の考えが述べられている。
 2日後の日付けで十数ブログがリンクを付けた。その中で、重要なノードの役割をしたらしきところ(他サイトから情報元として書かれている)のは、駄文にゅうす(6/27)カトゆー家断絶(6/27)私たんニュース(6/27) あたりのようだ。
 その後も3日間にわたって、リンクを付けたブログが十いくつか。

「リンクonlyブログ群」の影響力
 正直に言うと、他サイトへのリンクだけ並べるブログを書いていくのがなぜ面白いのか、私にはよくわからない。(すみません。)
 ちょうど鈴木 聡さんが いかにして「他と違う情報を発信する」ことを促すかが重要なのでは(7/3) で、日本のWebにおける日記的コンテンツについて、「ただ他のサイトの情報を紹介するのみで,独自のコンテンツを発信できていない」を問題点として考察している。
 先々週までの私なら、たぶん何となくうなずきながら読んでしまったけれど、これだけ数の力にさらされると、そう言ってしまっていいのかと思えてくる。
 今までにもかなりメジャーなところからリンクされたことが何回かあるが、今回のPV数は桁違いだった。もっとも、「リンクonlyブログ群」のオーナーの皆さんは、きっと面白いネタを探しまわっている人たちだから、訪問者数は実はそれほどでなく、一人で何ページも移動してPV回数を増加させたのかもしれない。だから、「リンクonlyブログ群」が初めて開拓したサイトで高いPV数が記録されても、二回目以降はそれほどでなくなるのかもしれない。
 それにしても、あっというまに40ものサイトからリンクされるのだから、この影響力も大きいと思う。

新しいネット世代
 で、最初の話、こういうことが起こって、なぜ私は「旧世代のネット人」だと感じたのか。前に 「ネット世代論」を「匿名性」とスッパリ切り離してみる の中で、ネット人を判別する指標として次の3点を挙げた。

 A.あなたは、空いた時間があればとりあえずネットに接続していますか?
 B.あなたは、ほぼ習慣的に「次にupすること」「いつかupすること」を探していますか?
 C.あなたは、ネット内での自分の位置や他人からの評価が気になりますか?

 この中のBは、「リンクonlyブログ群」のオーナーたちの感覚とは多分ちがっている。勝手な想像だが、オーナーたちは、一日のうちかなり長い時間をPCの前で過ごし、ネットの海の中で情報を探し続けているのではないか。「次にupすること」「いつかupすること」ではなく、「今upすること」を探しているのだ。
 私(旧世代)の感覚としては、ネットで表現したいものはあくまで自分自身の中にあり、見つけてからおもむろにPCに向かっている。「リンクonlyブログ群」のオーナーたちは、ネットの膨大な情報をフィルタリングする行為自体が自己表現であるかのように見える。
 ちょうど、梅田望夫さんのブログで 消えゆくマスマーケットとミレニアルズ世代 が公開された。これはネットをする・しないとは関係なく、若い世代を「ミレニアルズ世代」として特徴づける話。

 (1) 浴びている情報量が圧倒的に多い
 (2) マルチタスキングが当たり前である
 (3) 情報を人と同時にあるいは人よりも早く得ることに強いモチベーションがある

 「リンクonlyブログ群」も、似た特徴を持っているように見える。
 こういう世代の出現をいいとか悪いとか価値判断するつもりは全然ない。こういう世代が多数派になっていくのなら、どうやって私の訴えたいことを伝えたらいいだろうかと考える。
 私が訴えたいこととは、分析化学の仕事に興味を持ってもらって、あわよくばこの道に進んでもらうことだ。とりあえず、私の本館ページは専門家向けで読みにくいから、秋月ナルさんの日記(環境分析、現役)または クロやんさんのページ(地方衛生研究所、OB)をのぞいてみていただければ、うれしいです。(と今ごろ言っても、もう遅い。)

2004/7/8 追記
 トラックバックいただいた記事 個人ニュースサイトの一般的価値と個人的価値 によれば、「リンクonlyブログ群」は「個人ニュースサイト」と呼ばれているらしい。

参考リンク
 ABCが苦手でも...作ろう英語サイト より、ブログ普及以前のサイト作成がどんな感じだったか伝わってくる文章をご紹介。(どちらも長文。)

相互リンクを成功させる方法
 メールを出して自分のサイトにリンクしてもらう際の頼みかた。
 相手が人気サイトで、アクセスが多ければ・・・「リンクさせてください」
 相手の歴史が浅く、カウンターも低ければ・・・「相互リンクしませんか」
 一つのリンクにこれだけ気を使った頃(つい最近)もあったという話。

リンク縦横無尽
 他人のサイトにリンクを張るのは、自分のサイトのページランクを流出させるようなもの。自分のページどうしのリンクを縦横無尽に張ろう・・・HTML手書きでこれをやると、本当に内職的な手間がかかる。ブログなら、何も考えなくても全ページのサイドバーが自動的に更新されて自サイト内リンクが瞬時に構築される。ブログのありがたさをしみじみ感じる一昔前(つい最近)の話。

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2004.07.04

何が好きな13歳ならこの仕事に向くか

 村上龍「13歳のハローワーク」がよく売れているらしい。発行は昨年11月だが、ずっと好調なようで、書店に平積みしてある。私も買ってみた。(この本を見かけたことがないかたは・・・bk1amazon
 帯にこう書いてある。

<いい学校を出て、いい会社に入れば安心>という時代は終わりました。
好きで好きでしょうがないことを職業として考えてみませんか?

 13歳、つまりティーンエイジの入り口くらいの子に向けて、「自分は何が好きか?」を手がかりに探せるよう、514種の職業が紹介されている。「花や植物が好き」「音楽が好き」「スポーツをするのが好き」「旅行が好き」「心のことを考えるのが好き」「人の役に立つのが好き」などなど、多彩な「好き」が集められている。村上氏自身によるコラムが読み応えたっぷりで、13歳というより大人が読んでうなりそうな文章が多い。

化学分析という仕事
 私の関心は、自分の職種はこの本に紹介されているか?何が好きなら自分の職種に向くのか?ということだった。ところが案の定、化学分析という仕事は職種として紹介されていない。就業人口はかなり多いはずなのに。
 関係ありそうなのは、「人体・遺伝が好き」の章で「薬剤師」が紹介されており、「国や都道府県の職員として、産業廃棄物処理施設などの事業の許認可や土壌・水質検査、薬品検査、有害・有毒物質の検査などを行う人もいる」と書かれている。「人体・遺伝が好き」だからといって化学分析に向くのだろうか・・・?。

 分析の仕事へのインセンティブとして、「分析そのものが好き」の他に「この分析対象が好き」というのがある。食の安全、環境問題、薬物動態などなどに関心があって、その周辺の仕事をしたいから分析を担当する。そういう人も多いだろう。
 しかし、分析というのは方法に過ぎず、各分野のメインになることはあり得ない。所属組織の規模や方針にもよるが、大きな仕事をするところほど、分析担当者は研究やプロジェクトや業務の核心から遠いところに置かれ、単に分析値を出し続けるだけの立場になりやすい。アウトソーシングされた分析だけを手がける機関も多い。好きで分析屋になる人ばかりではないことは、分析屋は口が固い でも書いた。
 「環境問題」や「薬物動態」に興味があってその方面に進んだとして、現実にはアセスメントや実験計画には参加できずに分析ばかりやることになって面白くない・・・というパターンは多そうな気がする。まあ、この場合は、「自分の興味のある分野に関連する仕事ができる」ことに喜びを見つけることだろうか。分析対象への愛着があって勉強熱心なほど、質の高い分析ができるに違いない。

 また、私自身がそうだが、リタイアまで同じ対象物を分析し続ける分析屋ばかりではない。いろいろな事情で、まるで違うものを分析するようになる場合もある。

何が好きならこの仕事に向く?
 分析対象でなく分析そのものが好きな分析屋は、13歳の頃には何が好きだったろうか?
 あれこれ考えた末に思いついたのがこれ。
 問題を解くのが好きな13歳は分析屋に向いている。これは、クイズの答えを考えるのが好き、数学の難問に挑戦するのが好き、謎解きがテーマの物語が好き、ということ。

 プロジェクトまたは現場から遠いところに置かれた分析屋にも、クライアントの要望は知らされる。何を分析してほしいのか、どの程度の感度と精度が必要か、コストはどこまで許容できるか・・・。また、分析屋は、クライアントが気づかない色々な問題に気づくこともできる。(気づけなければ値打ちがない。)試料採取・運搬・保管中に対象物質が変化してしまう可能性、同時に分析することで有用な情報が得られる別物質の存在、ベストなデータを得やすい試料採取のタイミングなどなど。
 確立された手順書に沿ってルーチンをこなしていくだけ、という分析屋にも、試薬ストックを作るタイミング、機器の配置、ちょっとしたミスを防ぐ掲示物など、日常の業務を向上させるという課題と工夫の余地は常に存在する。

 決められた課題があって、その枠組みの中で最良の方法を考えるのが、分析屋の仕事の本質だと思う。自分から未知のものを探求していきたい、創造していきたい、という志向とはちょっと違う。(そういう人にとって、分析は方法としての意味しかないと思う。ただし、新しい原理の分析法を開発する仕事はこの範疇。)

 私自身について言えば、まさに問題待望型の性格だ。自分から新しい発見をしようとは思わない。問題を与えられて、「探せば必ず最良な答えが見つかる」あるいは「現時点での最良さえ見つければ、よしとされる」状況下で考えるのが好き。受験勉強などは、とことん性に合っていた。私のblogもまったく同じ発想でやっている。「サラリーマン専門家が、できるだけ心理的負担を感じずに専門分野について語るには?」というテーマだけを、しつこく追究している。

「・・・が好きな13歳は・・・に向いている」は無数にある
 私が考え付いた説に同意しない人もいるだろう。同意できるとしても、他にも「これが好きなら分析屋に向く」のパターンは色々あるはずだ。ここを読んでいる分析屋のみなさんは、どう考えるだろうか。他職種でも、それぞれに面白いアプローチが無数にあると思う。ちょっと想像力を働かせたら、「自分は今の仕事が好きでない」と感じている人にとっても、思わぬ発見があるかもしれない。

 この記事は、はじめて 本館 とblog版への同時ポストで書いてみました。分析業界のかたも他業界のかたも、コメント、トラックバックを こちら へお寄せください。

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2004.07.03

「なぜウェブログを書き続けるのか」モデル

 科学に「将来予測」を期待する の記事で、三浦麻子さんの 「人はなぜウェブ日記/ウェブログを書き続けるのか」 に関連して私の希望を書いたところ、コメント欄 に三浦さん御本人からのお返事をいただきました。私自身は日頃トラックバックには基本的に反応していないので、たいへんうれしく、また恐縮しています。しかも、ただの素人の勝手な期待に対して、専門家として極めて誠実に答えていただきました。はい、心理学の守備範囲でないところまでは望みませんが、今後の展開に期待させていただきます。

 三浦さんの発表資料に対しては、三中信宏さんも 6月30日付け7月1日付け でコメントを書かれています。
 「なぜウェブログを書き続けるのか」モデルが提案されれば、それだけで価値があるとのこと。「現状解釈ではなく将来予測を社会心理学に期待」する私は「期待し過ぎ」ですか。まあ、blogで研究内容を公開したら、一般人からの素朴な期待も疑問も出てくるわけで。私のblogでは、評論家的な態度は排除して、できるだけ具体的な方法を書くようにしていますから、ああいう内容になりました。
 一般論として科学に将来予測だけを期待しているわけではないです。知が深まること自体の価値とか、法則の美しさとか、まあ、並べるまでもないですね。

 ところで心理学というのは、一般人から「占い」的なものを期待されてしまうことが多いような印象を持っています。どんな専門分野に対しても多少は一般人からの偏見があるでしょうが(化学分析に対してもあると思う)、心理学は、はた目から見ても、専門家がトホホと思うことが多そうな気がします。(これも偏見かも。)

 それからですね、ネットで 科学論の議論 は、サラリーマンにとっては鬼門ですね。実はけっこうのめり込むほうですが、世間体が許しません。私はあくまで、個別具体的な方法論のみ話して行きます。

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