「表現の匿名性」と「消費生活の匿名性」
このblogでは「アクセス解析」と「匿名・実名」の話題をかなりしつこく書いてきた。私は「アクセス解析」に関しては、個人の閲覧履歴が把握されるのはなんとなくイヤ、匿名性を確保したいという立場。一方、ネットでの発言における「匿名・実名」に関しては、匿名発言の自由も尊重されるべきだけど、個人的には実名での発言のほうをより評価(信頼)するという立場。
このように「匿名性」に対する姿勢が逆方向になっているが、別に矛盾も感じずに、それぞれ話を進めてきた。
昨日付けで掲載された高木浩光さんの日記 「消費生活の匿名性」論議を人質にして「表現の匿名性」を求める市民運動は「市民のため」か? を読んで、あ、そういうことかと思った。
「アクセス解析」で私が求めてきた匿名性は、「消費生活の匿名性」だったらしい。生活の一部として何気なく行っているページ閲覧という行為を、他人に把握されたくない。
一方、ネット発言の「匿名・実名」は「表現の匿名性」の問題。内容によっては他人に被害や不快感を与えるかもしれないネット発言に、無制限な匿名の自由を与えるべきかという問題。
この両者で、匿名性を求める、あるいは許容するレベルを区別しようと考えるのは、しごく当然なことだ。
私は無意識のうちに区別していたけど(多くの人がそうしていると思う)、高木さんは上記の日記で、この二つをごっちゃにして「匿名性」を要求する意見があることに注意を喚起しておられる。つまり、「消費生活の匿名性」に対して高い水準の匿名性が要求されるのに便乗して、「表現の匿名性」にまで高い水準を要求する、という論法があるそうだ。
具体的には、著作権を侵害するとして開発者が逮捕されたソフトWinny。これは発信者(Upフォルダに入れてファイルを放流した人)を匿名にする、つまり「表現の匿名性」を確保することを主眼に置いているソフトだが、これを擁護しなければ、近い将来のユビキタス社会(商品にICタグが組み込まれる)における「消費生活の匿名性」まで脅かされてしまう・・・という論法だ。
高木さんが危惧されるのは、「表現の匿名性」の世評の悪さから、「消費生活の匿名性」まで軽視されてしまうのではないか、ということらしい。それは、もっともな心配だ。私もこれからは意識して区別しよう。
瀬戸秀紀さんの Winny開発者逮捕 にトラックバックしておきます。
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