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June 2004

2004.06.30

2004年6月の記事目次

科学に「将来予測」を期待する
実名公開・性別非公開
「ネットな人」仮説
「表現の匿名性」と「消費生活の匿名性」
将来もしかしたら実名を名乗るかもしれないかたへ
科学者よりも作家になりたかった頃
「組織の人のblog」過去ログ
Yahoo!とGoogleのキーワード検索をどう使い分けるか
あの白衣の女性と博士
ウェブで語る目的論
「ネット世代論」を「匿名性」とスッパリ切り離してみる
「組織の人のblog」という話題
「こちら側」と「あちら側」
「小さい」って・・・そういう意味だったんですか
捨てハンドルネームと固定ハンドルネーム

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科学に「将来予測」を期待する

 心理学研究者の 勝谷紀子さん 経由で、 「人はなぜウェブ日記/ウェブログを書き続けるのか」発表資料 (神戸学院大学人文学部人間心理学科 三浦麻子さん)を読む。
 「はてなダイアリー」利用者へのアンケートや、御自身のウェブ日記・ウェブログ公開体験を基に、ウェブログと従来のウェブ日記との異同などを考察した内容。

 私が勝手にタイトルから期待したものとは違っていた。
 「既にウェブログをやっている人たちが、どんな心の動きでそれを続けているのか」の分析。ウェブログについて語るウェブログは非常に多いわけで、あちこちで見かける自ブログ・他ブログ観察レポートのような内容が、単語や図に集約されていると感じた。(そういうことをするのが心理学というものなのかもしれない。「つぶやき」を客観的に見えるものに・・・)

 勝手にタイトルから期待したのはどんな内容か、書いておく。心理学に期待すべきことなのかどうかもわからないが。

 私が自然科学・社会科学全般に対して最も期待しているのは、「将来予測」に役立って、生き方の指針を示してくれること。
 だから、「ウェブ日記/ウェブログを書き続ける」という行為が、今後もっとメジャーになっていくのか、それとも少数の人たちの特殊な趣味に限定されたままなのかを知りたい。たとえば、ウェブログを書く人と書かない人の意識や行動上の特徴を分析して、今後ウェブログを書くようになる人が世代ごとにどの程度の絶対数で潜在しているのかといった考察をした研究ならば、非常に興味がある。
 梅田望夫さんの インターネット世代論 は、マーケティングの立場から、直感的かつ大胆に将来予測した話だ。
 私は企業家でも投資家でもないが、自分の余暇時間をネットでの情報発信に使うことが将来的にもマイナーな行為にとどまるのか、それとも、もっと参加者が増えて社会的認知度も高まっていくのかを知りたい。コミュニケーションというのは他者あってこそなので、参加人数がこのままなのか増えるのかは、現在の力の入れ方に大きく影響する。
 梅田さんの説を裏付ける学問的なデータが出てきたらたいへん面白い。

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2004.06.27

実名公開・性別非公開

 私の性別は非公開。ネットで実名を名乗るための危機管理 で書いたとおり。
 でも、「津村ゆかり」と名乗って性別を非公開にしてもねえ・・・とあきれる人がいそうだなと思っていた。ところが、Narnian Cat@Doblog さんからのトラックバック記事 匿名と顕名:ネット上での危機管理:どこまで見せる?^-^? で、けっこう好意的に見てもらった感じなので(私の勝手な解釈かも)、気をよくして、もう少し書いてみる。

 悪意の人が誰かにネット上で嫌がらせしたい時、最もシンプルで手間のかからない(鋭い観察も個人情報入手もなしでできる)方法は、相手に対してやたら汚いイメージや劣ったイメージの言葉を浴びせることだ。(直接よりも、匿名掲示板利用が多い。)そんなことをする人たちを時々見かけてきたが、まあ7割がたはセクシャルハラスメント系の言葉が使われる、と私は思う。
 女性に対しては、第一に容姿、それから年齢、身体的なことや男性関係を連想させる言葉など。男性に対しては、女性関係の乏しさを連想させる言葉が一番で、あとは身体的なことや、社会的ステータスに関わることなど。
 何を書かれようと明らかにデタラメなんだから、別に気にする必要はない。でも、書かれたらやっぱり気分が悪いだろう。セクハラ系悪口は男性向けと女性向けがハッキリしており、対象者の性別が間違っていたらと想像が働くだけで、どぎつい言葉がユーモラスに変身してしまう。性別があいまいな相手には効果がない。

 それから、私がウェブで語りたいのは、自分の専門分野のことと、語るための方法論のみだから、性別を公開する意味はないし、むしろ公開しないほうが気楽だ。
 ネット上で起こる激論のパターンの一つとして、「双方の立場の違い」がある。感情的にもつれるような「立場の違い」には、性別がからむ場合が多い。職場での男女のあり方とか、未婚・既婚とか、妻が働いているか専業主婦かとか、子供の有無とか、家族的責任を果たしているかとか。
 性別を公開していない私は、そういう議論に加わることはないと意志表示しているとも言える。これまでもこれからも、男女どちらかの立場から書くことは多分ない。これは風変わりな態度のように見えるかもしれないけれど、やってみるととても自由な気持ちになれる。(ただし、多くの人に読まれたいなら、こんな態度でないほうがいいと思う。)

 オフラインで知り合いの 瀬戸秀紀さん瀬戸智子さん、こういうわけで私の性別は非公開ですからよろしく。智子さんの シャロット姫からノーラまで にトラックバックしておきます。ジェンダーの話に興味がある方は、智子さんの枕草子へどうぞ。

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2004.06.26

「ネットな人」仮説

 これはまったく見当はずれな思い違いかもしれないし、あるいは逆に、ネットコミュニケーション論の専門家にとっては自明のことだったりするかもしれない。ネット歴長めの一ユーザーとしての限られた経験から、感じたままを書いてみる。
 もとは梅田望夫さんの インターネット世代論 から考え始めたことだが、だんだんと私の自説の部分が大きくなった。

 「ネットな人仮説」と名付けてみようか。「ネット人仮説」でもよい。
 1.世の中には、ネットへの親和性が高い人と、そうでない人がいるようだ。
 2.ネットへの親和性の高さは、先天的な要素と後天的な要素で決まるらしい。先天的に資質を持つ人たちが後天的にネット体験を積むと、ネット人になるらしい。
 3.ネット人の行動原理は、「ネットで自分を表現したい」という根源的な欲求。

 「ネットな人」の特徴や生態については、過去記事 123 にあれこれ書いたし、梅田さんの記事やそのリンク先にも描写されている。

 この仮説を認めるとしたら、どんなことが導かれるか。
 「ネットな人」本人にとっては、自分の行動原理を知ることで、自分の行動をよりうまく制御できるようになるかもしれない。「うまく」というのは、自分の深い部分での価値観や長期的な利害と合致するように、ということ。「あとで後悔しないように」とも言える。食欲や性欲や物欲や名誉欲や独占欲を制御するように、「ネットで表現したい欲求」を制御する。

 自己を表現する方法は、ネット以外にいくらでもある。おしゃべりやファッションやスポーツや舞踏や音楽や模型製作などなど。それらに充当することもできる時間や労力をネットに向ける人たちは、別の表現方法よりもネットでの表現というスタイルが合っているのだろう。
 でも、インターネット上での表現は、音楽やファッションによる表現と比べたら、格段にリスクが大きい。自分がそういうリスクと引き換えに表現欲求を満たしていると認識すれば、「別の表現方法に振り向けたほうがいい部分もあるのでは?」とか「表現する場の公開/非公開の比率はこれでいいか?」とか「実名・匿名、どちらを選ぶか?」とか、「どうせ表現するなら、よりよい表現をしたい。どうすればいい?」とか、考えやすくなる。
 それから、世の中の多数派は、自分のような行動原理では動いていないと認識できる。ネットの世界にいると、ネットな人ばかり世の中にいるような錯覚に陥ってしまうけれど、そんなことはない。
 あとは、梅田さんのように、若い世代ほど「ネットな人」の比率は高まり、いずれ無視できない勢力になると予測してマーケティングに生かす・・・というのもある。
 ただ、私の直感でしかないけれど、ネットな人の存在確率はそんなに高くなくて、今後めいっぱい顕在化したとしても、全人口の1割よりは少ないと思う。サイレントな1割でなく表現する1割だから、これでもすごい影響力を持ちそうだけど。(ネットな人が全員インターネットに出てくるわけでなく、たぶん非公開のコミュニティでネット人になる人が多い。)

トラックバック先
インターネットコミュニティは「村」段階(Unforgettable Days)
 インターネットコミュニティが進化・発展していくという観点から、現時点でどのへんか、という分析をされています。

自由に意見を述べられる場の限界(philosophical)
 上記記事へのコメント。Shinさん、お引越し、おめでとうございます。(新築お祝いみたいな感覚で。)

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2004.06.23

「表現の匿名性」と「消費生活の匿名性」

 このblogでは「アクセス解析」と「匿名・実名」の話題をかなりしつこく書いてきた。私は「アクセス解析」に関しては、個人の閲覧履歴が把握されるのはなんとなくイヤ、匿名性を確保したいという立場。一方、ネットでの発言における「匿名・実名」に関しては、匿名発言の自由も尊重されるべきだけど、個人的には実名での発言のほうをより評価(信頼)するという立場。

 このように「匿名性」に対する姿勢が逆方向になっているが、別に矛盾も感じずに、それぞれ話を進めてきた。
 昨日付けで掲載された高木浩光さんの日記 「消費生活の匿名性」論議を人質にして「表現の匿名性」を求める市民運動は「市民のため」か? を読んで、あ、そういうことかと思った。
 「アクセス解析」で私が求めてきた匿名性は、「消費生活の匿名性」だったらしい。生活の一部として何気なく行っているページ閲覧という行為を、他人に把握されたくない。
 一方、ネット発言の「匿名・実名」は「表現の匿名性」の問題。内容によっては他人に被害や不快感を与えるかもしれないネット発言に、無制限な匿名の自由を与えるべきかという問題。
 この両者で、匿名性を求める、あるいは許容するレベルを区別しようと考えるのは、しごく当然なことだ。
 私は無意識のうちに区別していたけど(多くの人がそうしていると思う)、高木さんは上記の日記で、この二つをごっちゃにして「匿名性」を要求する意見があることに注意を喚起しておられる。つまり、「消費生活の匿名性」に対して高い水準の匿名性が要求されるのに便乗して、「表現の匿名性」にまで高い水準を要求する、という論法があるそうだ。
 具体的には、著作権を侵害するとして開発者が逮捕されたソフトWinny。これは発信者(Upフォルダに入れてファイルを放流した人)を匿名にする、つまり「表現の匿名性」を確保することを主眼に置いているソフトだが、これを擁護しなければ、近い将来のユビキタス社会(商品にICタグが組み込まれる)における「消費生活の匿名性」まで脅かされてしまう・・・という論法だ。

 高木さんが危惧されるのは、「表現の匿名性」の世評の悪さから、「消費生活の匿名性」まで軽視されてしまうのではないか、ということらしい。それは、もっともな心配だ。私もこれからは意識して区別しよう。

 瀬戸秀紀さんの Winny開発者逮捕 にトラックバックしておきます。

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2004.06.22

将来もしかしたら実名を名乗るかもしれないかたへ

 今回の話は、ハンドルネームと実名が結びつくことはないと決意して万全の対策をしている人には関係ない。将来、自分から実名を名乗る、あるいは不本意にも実名が知られてしまうことがあるかもしれないと考える人のための話。

 私自身は、ほんの一年余り前まで、自分がインターネットで実名を名乗るようになるとは考えてもいなかった。ちょっとしたきっかけ から、それまで勤務先のサイトで公開していた内容を個人で公開するようになり、実名を名乗った。
 このとき、あまり抵抗なく実名のサイトにできた理由として、過去にハンドルネームで発信した情報内容に、実名と結びついたら困るものがない、ことが大きい。

 私のネット歴は1988年頃から始まっている。その頃のネットと言えば、個人宅にサーバーを置いて電話回線で結ぶ「草の根ネット」が花盛りで、私は日記を書くように気軽に色々なことを書いていた。しばらくして、@Niftyの前身のニフティサーブのフォーラムでも、よく書くようになった。
 正直言って、あの頃に書いた内容が全部インターネットで検索できる状態だったら、今こうして実名を名乗ることはなかったと思う。

 「ハンドルネームで書いたものをたまたま知人が読んだとしても、自分だとわかる可能性はほぼゼロ」と言い切れる人はどのくらいいるだろうか。また、「自分がネットで発言していることは、家族にも友人にも完全に秘密にしている」「メールでも決して実名を名乗らない」を実践している人はどのくらいいるだろうか。
 何かのきっかけで、悪意を持つ人に、実名とハンドルネームの結びつきを知られてしまうことはないだろうか。そして、そのことをネット上のどこかで暴露されてしまう危険は皆無だろうか。

 インターネットの「検索」という機能は、本当に怖いものだと思う。特に日本語の氏名は他言語の氏名よりも多彩で、同姓同名があまり多くない。
 草の根ネットが消滅し、ニフティのフォーラムがパソコン通信からインターネットベースに移っていったのに応じて、私もネットでの発言は小規模なメーリングリスト等にシフトさせていった。

 今からネットを始める人たちは、草の根ネットからでなく、いきなりインターネットから始めることになるが、それって大丈夫なんだろうかと思ったりもする。
 悪意の人に晒される危険とは逆に、インターネットで思わぬ評価を受けてメジャーになっていく可能性もある。そんな場合も、リアルの自分との結びつきを完全に消しておけるのだろうか。(消すこともできるだろうが、そうすると、せっかくの評価を十全に活用できない残念さがきっと伴う。)
 また、ネット環境だって、今後どのように変化するかわからない。これまでは、最も多数派であるハンドルネームの書き手を排除していたら面白いコミュニティは成立しにくかった。ネット人口の増加とともに、実名限定の面白いコミュニティの数は増えていると思う。つまり、現時点で匿名を選んでいる人も、将来実名を名乗りたくなる可能性がある。

 たとえば、こんな方法も考えられる。ハンドルネームを2つ持って、一つは「将来実名と結びつくかもしれない自分 A」、もう一つは「実名とは決して結びつかない自分 B」を表現するとか。
 こういう場合、私だったらBよりもAのほうがたぶんネット上で評価されると思う。(専門知識をバックに書けるから。)だったら、労力を分割するよりも、Aの自分だけ表現するほうがラクだし、内容を充実させられる。
 Aの自分を表現していると自覚している人は、将来実名を名乗ることになったとしても困らないよう、今から気をつけるほうがいいと思う。(参考:ネットで実名を名乗るための危機管理)一方、Bで行くなら、訴訟にだけはならないよう、また、実名が割れることのないよう、細心の注意を払うということだろうか。

参考リンク
 ハンドルネーム・ペンネーム・本名
 短歌の創作をしておられる木村草弥さん(ネットと実生活で同じペンネーム使用)のblogより。ネットでの創作が評価されて「カミングアウト」する状況になったらどうするか?という話。

 PC通信以下 某所以上 の 匿名性
 上の記事からトラックバックをたどって。「ゲド戦記の世界。まことの名は隠し、本当に信頼できる相手以外にはもらしてはならない・・・似てるなぁ、といつも思ってました。」に共感。私も「ゲド戦記」が好きです。たしかに似ている。

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2004.06.20

科学者よりも作家になりたかった頃

 科学者よりも作家になりたいかもしれないと、漠然と思っていた頃があった。物質や現象について客観的に述べるより、人間を描くほうが創造的なような気がしていた。
 既に亡くなられているが、私の郷里に、地方では有名な女性作家がいた。学生の頃、ファンとしてそのかたの自宅を訪ねたことがある。とりとめない話の中で「ヒッカ」について特に熱心に語られたのを、今も覚えている。
 「ヒッカ」とは何のことか最初わからなかったが、「筆禍」だった。「舌禍」に対して「筆禍」もあることを、そのとき初めて知った。要するに、自分が書いたことが原因になって、他人との間でトラブルが起こること。
 当時既に高齢だったその女性作家は、自分自身や親族をモデルにして、ほとんど実話に近い自伝的小説を書いていた。郷土の作家と言われる人には、そういうスタイルをとる人が多いらしかった。どうも、作家仲間の中に、訴訟を起こされてたいへんな目に遭っている人がいるようだった。
 私が会った女性作家本人は訴訟は抱えていなかったが、筆禍を避けながら文学することの難しさを強く意識しておられる様子が私の印象に残った。

 実話とまで行かなくても、リアルな人物像を描こうとすると、どうしても身近に知っている人格を投影してしまうものかもしれない。
 人生は、ほとんどのできごとが忘却の彼方へ去っていくからこそ生きていける・・・という側面がある。忘れたいできごとや過去の自分が、意に反して消えていかず、それどころか大勢の目にさらされたならば、大半の人は傷つくだろう。訴訟までは起こさないにしても。
 それでも書いておきたい、書かねばならない、という強い気持ちがあって、人間を描く人たちがいるのだろう。

 結局私は「体験」や「伝聞」でなく「実験」や「文献」によって新しいものを生み出す道に進んだ。はっきり言って、文学するよりもずっと気楽で、遠慮なく公開できる産物が多い。

 インターネットでものを書く層が広がるに連れて、実在するらしき個人をネタにした文章もずいぶん増えていると感じる。文学風のものから実録、日記、おしゃべり、あるいは愚痴までさまざまだ。他では読めない価値の高いものもあり、益があるやら疑問なものもある。いずれにしても、書き手はそれぞれに覚悟して、書いておく意義と、書くことによって傷つくかもしれない人のことまで考えた上で書いているのだろう。(と願う。)
 私には覚悟がない。私と私の周囲の人々は、消したいものが消えていく生活でありますように。データはきちんと記録して、報告書や論文にしますから。

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2004.06.17

「組織の人のblog」過去ログ

 先週書いた 「組織の人のblog」という話題 の続き。blogに限らず、ネットで組織の人が発言することに関する意見を整理して、知っている範囲内の過去ログもリンクしておこうと思う。

二分される姿勢 
 いろいろな人がいろいろなことを書いているが、基本姿勢は主に2通りある。組織の人が発言することに慎重さを求める意見と、あまり規制をかけるべきでない(日本社会の特質から来る「自主規制」も含めて)という意見だ。
 規制すべきでないという意見は、どんな立場の人から出てもおかしくない。それに対して、慎重さを求める意見では、まず発言者の立場が明らかにされる(はず)。
 というのは、他人が自由意志でする表現に干渉するわけだから、対象となっていない人まで「自分が言われた」と受け取ったり、強制力があるわけでもないのに強制されたと感じる人がいると、ネットでお決まりの反応になりがちだから。
 発言者の立場として一番ソフトなのは「私はこのように心がけています。参考になると思う人だけ参考にしてください」だろう。一番きついのは「こうするのが正しい。こうしないやつは社会正義に反している」といった主張の仕方だ。中間に、いろいろな立場がある。

私の姿勢 
 私はずっと、慎重派の発言をしている。自分が保身を心がけながらネット活動しているから、それを方法論としてまとめると当然慎重なものになる。
 しかも、単に「参考になれば」より踏み込んだ干渉をする場合がある。というのは、「組織の専門家がウェブで発言すること」を勧める文章を何度も書いているからだ。これらの文章を読んでサイトを開く気になった人がいるとすれば、私は多少なりとも責任を感じる。あらかじめ予測されるトラブルならできるだけ避けて、快適なネット活動をしていってほしい。
 また同業の人に対しては、化学分析業界への不信を招くことは書かないでほしいという気持ちがある。そういうことがあると、私にもデメリットが及ぶ。
 それから、すべての組織の人に対して、他業界にまで影響するほど大きな問題は起こさないでほしいという気持ちもある。私自身が所属組織から規制を受けるようになったら困る。
 というわけで、私が書く内容には、単なる方法論以上に差し出がましいところがある。しかし、もちろん強制力はないので、うるさいことを言うヤツめと感じる人は、読まないようにしてください。

業種による違い
 業界の性質によって、組織の人の発言に慎重さが求められる度合いはかなり違うように見える。問題があってもやり直しのきく業界・娯楽や文化的要素の強い業界・個別構成員の問題が組織全体につながりにくい業界・ユーザーが簡単にサービス等の良否を見分けられる業界ほどオープンなほうへ意見が傾く。逆に、やり直しのきかない業界・人命や財産に関わる業界・組織的に仕事する業界・ユーザーがサービス等の良否を見分けるのが困難で信用が重んじられる業界ほど慎重な意見になる。(ちなみに 私がいる業界の場合 は最大限慎重にならざるをえない。)

 それから、「ウチの業界(会社)の情報は漏らしたくない。でも、他の業界(会社)の情報が漏れてくるのは大歓迎」という立場もある。私だってそうだ。私がいる業界と、他業界で扱われている個人情報、これだけが守られるなら、残りはすべてオープンになってもらいたい、というのが本音だ。

どんな問題が考えられるか
 「組織の人のネット活動」に慎重な意見が出るのは、なんらかの問題が予測されるからだ。私が考え付く限りでは、些末なものまで入っているが、下記のような問題が起こる可能性がある。(あくまで可能性。)

  • 個人的な意見が組織の見解であるかのように受け取られる。(特に行政関連の組織の場合問題。)

  • 顧客情報、新製品開発情報など、組織外へ出るべきでない情報が流出する。

  • ウェブ上で表現されている道徳性や職業倫理観が特殊で、組織の製品やサービスへの不信感を招く。

  • ウェブ上で表現されている専門的技量が低いために、組織の製品やサービスへの不信感を招く。

  • 組織内の様子の描写が、組織の製品やサービスへの不信感を招くような内容である。

  • 長期間・高密度の情報発信が続くと、本業に専念しているのかと疑われる。(これは、特に給料が税金から支払われる公的立場の場合問題。)

  • 組織の資金や勤務時間を使って得た研修、文献、学会等の情報を私的に流すことを問題視される。(公的立場の場合は、むしろ推奨されることかも。)

  • たとえ既に公開されている情報であっても、組織として実施した事業内容に当事者の立場で言及するのは情報管理上好ましくないとして問題視される。

 他にも色々とありそうだ。
 こういう問題の可能性を含みつつも、組織の人が発言する「意義」もあるはずだが、それについてはあまり考えていない。そのうちまとめるかも。

組織のトップの人のblog
 「組織の人」って、当然サラリーマンと思い込んでいたが、経営側の人にとっても(経営側だからこそ)重くのしかかってくる問題らしい。前回の記事にトラックバックをいただいた 「Sunの社員ブログ」 (中小企業診断士/ITコーディネータ 春日一秀さんのブログ)によれば、経営者の場合、ブログでの発言が株価に影響を与えたりすることもあるそうだ。春日さんの最近の記事に 社長ブログをひさびさに巡回してみました。というのもある。技術系blogで使えそうな芸風 で紹介した矢澤到さんのコラムも、経営者による情報発信だ。

私が知っている過去ログ
 今の時点で知っているものだけピックアップ。

専門家は個人の責任で情報発信するな
 徳保隆夫さんの記事に対して、多数の人が意見を書いた。徳保さんは丁寧にリンクを張ってコメントしておられて、議論の流れを追いやすい。「極端なタイトルと実名風ハンドルネームと硬派な文体」という道具立てから、普通は関わらないような層まで関わってしまったような気もするけれど(あくまで私見)、だからこそ、各界のかたがたによるそれぞれの発言は興味深い。
 ところで徳保さんは 本名で Web サイトを開こうと思う とのことで、現在のサイトの更新頻度は今後激減するそうだ。「私の本名を知らない方も、徳保隆夫という名前から容易に本名を推察できるはず」って、できませんよ。どう検索したらいいんですか。本名を教えてください。

匿名かハンドルか
 高木浩光さん主宰の Java House メーリングリスト 内での議論にて、YAMADA Takeoさんの発言

だから私は、所属組織を明らかにすべきではないと思うし、所属組織ドメインのメールアドレスで参加すべきではないと考えます。

 に対して、高木さん自身が多数回にわたるメールのやり取りをして発言撤回を求められたもの。他の参加者からの意見や体験談もあり、興味深い議論になっている。一参加者の発言に主宰者自身がここまで執拗に撤回を求めるのはなぜ?という印象も持ったのだが、最近の高木さんの日記 6月12日付け を読んで納得した。メーリングリストでは「反論がなければ同意したものとみなされる」「『最後の主張が正しいらしい』と済ます読者がいる」可能性があるらしい。
 (余談だが、この日記の後半は崎山伸夫さんの記事への長い反論になっている。内容は技術的なことで私には理解できないが、崎山さんは上記徳保さんの一件でも登場しておられた。)

技術系メーリングリストで質問するときのパターン・ランゲージ
 結城浩さんの「心がけ」の一つ。肩書き ―― 会社の名前を背負っていることを忘れないように の項がある。

真・技術系メーリングリスト FAQ
 「私はISO9000シリーズの認定を受けた社会的に品質保証に信用のある企業に勤める者です。そのような会社に勤めている私がメーリングリストでマニュアルを調べればすぐに分かるような初歩的な質問をしても問題はないでしょうか?」といった項目がある。

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2004.06.13

Yahoo!とGoogleのキーワード検索をどう使い分けるか

 主に 本館 読者のみなさまへ、ネット初心者向けの解説です。Yahoo! の検索が変わったことについて。
 インターネットで特定のキーワードを使って情報を検索する時に Yahoo! JAPAN を使う人は多い。Yahoo! はネット初心者にも知名度が高い。一方、ネットの使用経験を積むにつれ Google を利用する人のほうが多くなると言われる。
 この二つの違いは色々あるが、ここでは詳しく書かない。重要なのは、5月31日に、Yahoo!JAPANが検索エンジンをGoogleから「Yahoo! Search Technology」に変更したということだ。つまり、それ以前には、Yahoo! の検索といっても自前のものではなく、Googleのデータを仕入れてYahoo! が小売りしていたようなものだったが、現在はYahoo! が独自のデータ収集をしている。
 その結果、個人サイトは表示されるときの順位が下がったという報告が多い。表示順位をどうやって決めているかは企業秘密で、ユーザーには結果しかわからないが、試しに「農薬 分析」で検索してみると、私のサイトはどうヒットするか。

 Googleの「農薬 分析」 70,200 件中 7 件目に 残留農薬分析に関する話題 がヒット
 Yahoo! の「農薬 分析」 84,851件中39件目に 津村ゆかりの分析化学のページ がヒット

 この結果だけ見ると、「農薬 分析」で検索する人がYahoo!経由で私のサイトを訪問する見込みはまずないと思われる。しかも、「残留農薬分析に関する話題」のページでなく表紙がヒットしている。
 アクセス解析データでも、Yahoo! 検索経由での来訪が減ったことは確認できる。5月まではずっと、私のサイトへの訪問はGoogle経由とYahoo! 検索経由がほぼ同数だったが、5月31日以降、Yahoo! 検索経由はGoogle経由のほぼ7分の1になった。Google経由が増えたとは考えられないから、7分の6はおそらく純減だ。

 本館からこのblog版まで読みに来てくれている人は、たぶん私が提供している情報内容に価値を見つけてくださっている人たちだと思う。こういう内容を見つけたいならYahoo!よりGoogleのほうがよいらしい、これが本記事の結論。使い分けの参考にしていただければ。
 逆にYahoo!検索の方が向いている情報内容もあるだろうが、それがどんなものかは今のところ私には何も言えない。

補足と参考リンクなど
1.検索エンジンはGoogleとYahoo!の他に msnサーチ というのもある。これはマイクロソフト社の検索エンジンで、買ったばかりのWindows パソコンではインターネットエクスプローラの「検索」メニューにここが登録されている。だから、Yahoo!すら知らない超初心者はmsnサーチを利用することになる。
 しかし、この検索エンジンは使い物になるのか、私は疑問を感じている。なにしろ、本館ページは検索対象にすらなっていないから、どんなキーワードを使おうと検索結果に表示されない。それなら副サイトであるこのblogがヒットするかといえば、msnサーチの「津村ゆかり」 で64件中44件目に昔の記事がヒットするだけ。いったい、どんな仕組みで表示順位を決めているのだろう。

2.私の本館サイトはYahoo! JAPAN のディレクトリ「分析化学」に登録されている。だから検索での順位が下がっても相対的に影響は少ないのでは?と思われるかもしれない。しかし、分析化学というのは範囲が広すぎて、分析に携わる専門家は「**の分析」の「**」の範囲内に主に関心を持っているものだ。ディレクトリ経由で来てくれる人のニーズにたまたま私のサイトが合致する確率はあまり高くないと思っている。

3.Yahoo! の検索が変わったことについては下記のサイトや、それぞれからのリンク先に詳しく書かれている。
Yahoo!JAPANも独自の検索エンジン採用 (ITmedia ニュース 5月31日付)
Yahoo! JAPANがGoogleからYSTへの検索エンジン切り換えを実施 (CNET Japan 5月31日付)

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あの白衣の女性と博士

 島津分析機器 のサイトに「ほっとひと息 科学のお話」というコーナーがあり、雪の結晶茶柱 と3つの記事が掲載されているのを見つけた。いつごろからあったんだろう。
 内容は一般的な解説で、分析とは関係ない。でも、島津LCのユーザーなら、ちょっとうれしく感じるかも。顧客向け情報誌「LC talk」でなじんでいるあの白衣の女性と博士が解説者だから。
 なんというか、あの絵には素人っぽさがあり、それが味になっていて、どんな人が描いているんだろうと思ってきた。上記ページでは、ふんだんに画像が盛り込まれている。博士の名前は「LCはかせ」で、どうも大学の先生らしい。白衣の女性は助手だろうか。
 クロマトに関連するキャラクターといえば、Shodexの「Shinoちゃんと先輩」も、私は結構好きだ。こちらは、画像よりもトークが面白い。Shodexのサイトはリンクに事前の許可がいるのでリンクはしませんが。

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2004.06.12

ウェブで語る目的論

 ついに目的論へ来てしまったな・・・と自省中。私が「ネット世代論」に強く共鳴したのは、「なぜウェブで語っているのか」について一つの回答を示してくれたからだ。

 はっきり言って、他人の「目的」にはあまり関心がない。他人の「方法」は参考になるが、「目的」を詮索しても、当面役に立たない可能性が強い。私は実利主義だ。
 だから、自分の「目的」も話したくない。別にどうでもいいでしょ。ここでは、小心なサラリーマン専門家が、自分の専門分野について、できれば実名で語るための「方法」について書いている。
 というのが、続「世間体」を気にかけながら書く あたりで示した私の立場だった。

 でも、このさい目的について書いてみる。今まで書いてきた方法論も、必要ない人には全然役に立たなかったが、目的論は、もっともっと役に立たないと思う。

 私がインターネットで語りたいのは、この世界を、現実の世界とは別の価値を持つ独立した世界ととらえていて、その中で「生活」したいからなのだ。これが「ネット世代論」が教えてくれることだ。

 正直に打ち明けると、私は自分のPCを購入した1988年頃から、ほとんど途切れることなく「ネットの世界」に暮らしている。草の根ネット、ニフティサーブのフォーラム、2人から100人未満までの各種メールグループなど、そのときどきの関心や条件に応じて場は変遷したが、ずっとどこかの世界に住んでいた。
 なぜそういう行動になるのかは、自分でもよくわからない。リアルの私は、よくしゃべるほうだ。言いたいことを言えないようなタイプではない。でも、しゃべることと書くこととどちらが得意かときかれれば、書くことだ。何も書かない日が続くと欲求不満になる。こんな私にとって、ネットの世界は居心地がよい。
 「ネット世代論」を読んで、「要するにおまえはこの世界に居たいから居るんだろ」と言い当てられたような気がした。まったくそのとおりで、自分のネット活動に色々な意義付けらしきことを試みてはいるが、大もとになっているのは、この世界に心地よく居続けたい、そのために、少しだけ他人に認められたい、という気持ちだ。(「少しだけ」が肝心。目立ってしまうと、組織に雇われている私は居づらくなる。)

 三中さんも 「踏み絵」全部 Yes ですか。三中さんのような立場では、ウェブでの情報発信がリアルの実益につながる部分も少なくないでしょう。「匿名」のフィルターを使わない「踏み絵」では、このリアルの実益分を差し引かなければならないので、観測誤差が出ますね。でも、私が拝見するに、三中さんはまさしく実益分以上にしっかりとネットの世界に住んでいる方のように思えます。

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2004.06.10

「ネット世代論」を「匿名性」とスッパリ切り離してみる

 梅田さんの インターネット世代論 は、ネットが絡む色々な事件や現象を解き明かすのに役立ちそうだと思う。その際、「匿名性」とは意識して切り離してしまうのがいいのではないか?と考えてみた。

 「インターネットといえば匿名性」な感じの議論が多い。最近の例を挙げれば、木村剛さんの サイバーワールドとリアルワールドの戦いが始まる(日経BizPlus)があるし、小学6年生の女の子が同級生を殺害した事件に絡んでも、「ネットの匿名性」を問題にする意見をよく見かける。

 私は、「ネットの世界」の本質を説明するのに匿名性は不可欠でないと思う。だから、たとえば社内LANでも「ネットな人」は出現しうるし、最小単位、つまり、2人だけによる密なメールのやり取りにおいてさえ、「ネットの世界」は形成されうると思う。(実際、私はそういう世界に3年ほど居続けたことがある。)
 逆に大きいほうへ想像を働かせれば、インターネットの世界から完全に匿名性が抹消されたとしても、「ネットの世界」の本質は変わらないと思う。(もちろん、匿名性がもたらしている特質が非常に大きいことも論を待たないが。)

媒体に情報がプールされる仕組み
 リアル世界から一応独立した媒体に、いったん(あるいは継続的に)情報がプールされる仕組み。こういうものを自分の生活空間として入り込み、その世界での人格を形成できるのが「ネット世代」ではないか。
 その際、構成員どうしのリアル世界での接触の有無、立場の違い、好き嫌いなどは、もちろんネット世界での人間関係に影響する。しかし、毎日顔を合わせる間柄であってさえ、リアルの関係とネットでの関係は同じものにならない。いや、同じものにしようと極力努力するのは「ネット以前の世代」と言える。そういう世代は、ネットの世界でもリアルの制約に縛られた必要最小限の発言しかしない(できない)。よって、ネットの世界で遊ぼうとか生活の場にしようとか、つまり、ネットをリアル世界と別の価値を持つ空間として理解しない。

 情報がいったんプールされる仕組みは、ネット以前からも「サークルノート」「理科室の机の落書き」などの形で存在した。でも「生活空間」と認識できるほどになるには、頻繁にアクセスできることや情報入力に手間がかからないことなどが必要で、そういう環境は近年になって急速に普及した。

 こういう媒体を介すると、なぜ「もう一つの世界」が出現してしまうのか。私はコミュニケーション論の専門家でもなんでもないが、「自分の言いたいことを最後まで言える」のが最も大きいと思う。リアルの会話では、言いたいことを全て言える場面はあまりない。途中でさえぎられたり、相手の顔色を見たり、ちゃんと聞いてもらえなかったり、色々な理由で発言は中断される。(あるいは、そもそも発言できない。)そして、発言の受け手にとっては、「相手の発言に途中で文句をはさめず、全部受け取らされる」ことになる。
 たったこれだけの違いだが、人間どうしの関係に決定的な違いをもたらすように見える。

「もう一つの世界」がある・続くという信頼
 で、私は、「インターネット世代」でなく「ネット世代」と呼んでおくほうがしっくり来るような気がする。もちろんインターネットはキング・オブ・ザ・ネットで、他のネットとは比べようもない影響力を持つものではあるけれど。
 それから、「ネットの向こうの不特定膨大多数への信頼」とは、第一に「この世界が永続すること、自分と同じくらい真剣にこの世界で生活している他者がいることへの信頼」ではないかと思う。嘘つきよりは本当のことを教えてくれる人のほうが多いとか、親切な人も意外に多いといった信頼感、あるいはここで生きる自分のリテラシーへの信頼感は、この世界の存在を受け入れる過程で身についていくものではないか。

 付録として、「デジモノに埋もれる日々」の記事 私たちがネットを通して見ているもの・築いていくもの の向こうを張って、匿名性と切り離した「ネット人」の踏み絵を考えてみた。(匿名性をキーにした踏み絵のほうがわかりやすいとは思う。リアルの影響を排除したネット世界の価値を各人がどう捉えているか、純粋系で知るには、匿名という方法しかないから。)

 A.あなたは、空いた時間があればとりあえずネットに接続していますか?
 B.あなたは、ほぼ習慣的に「次にupすること」「いつかupすること」を探していますか?
 C.あなたは、ネット内での自分の位置や他人からの評価が気になりますか?

 私は全部「Yes」です。

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2004.06.08

「組織の人のblog」という話題

 「組織の人のblog」が、じわじわと話題になっているみたいだ。特定の「組織の人のblog」で何か注目されるようなことがあったという話ではなく、日本では組織の中の個人が自由に発言しにくい状況があるが、こういう中で「組織の人のblog」はどんな形になっていくのだろうか・・・といった話。

 これは私のblogの主題でもあるし、情報発信する個人のストレスを少なくする一つの方法論として昨年 組織の中の研究者・技術者がウェブで語るとき を公開している。

 話題がさらに広がるきっかけになりそうな記事 Sunのブログサイトが伝える「生の声」(ITmediaニュース) が6月5日付けで掲載されている。

外部とのコミュニケーション改善を目的に、Sunは最近、全社員がsun.com上にブログを作成できるシステムを導入した。このシステムは、新タイプの草の根企業コミュニケーションのモデルとなるかもしれないとSun担当者は話している。

 この記事に対する反応が、下記のようなblogで書かれている。
Sunのブログへの取り組み方 (utahblog)
Sunのブログサイトが伝える「生の声」 (Modern Syntax)
やられた! 社内ブログ (中妻穣太の日記)
 どれもほぼ、「画期的なことだが、日本では(まだ)無理だろうな」といった論調。私もそう思う。

 それから、鈴木聡さんの 0x0a では、以前からたびたびこの関連の情報がリンクされている。そちらからピックアップ。(鈴木さんって、まだ学生なのに、渋いテーマに興味を持ってらっしゃいますね。)
BLOGのゴスペル(Junjiro Hara's Blog)
「組織内の人がどれだけ自由に発言できるか」が blog の鍵 (NDO::Weblog)
Webにおける危機管理は一筋縄ではいかない (鈴木さん自身の記事)
まずは釘を刺せ,事が起こってからでは遅過ぎる(同)

 日本の場合、いったん大きな問題が起こったら、一斉に過剰な安全対策がとられるものだ。組織内の個人の情報発信を規制する動きで右ならえになる可能性もある。そういう事態にはなってほしくないから、大きな問題が起こらないよう祈っている。

2004/6/17 追記 続きを書きました:「組織の人のblog」過去ログ

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2004.06.06

「こちら側」と「あちら側」

 実名を名乗って、いかにもリアルの自分と同期した活動をしているかのように見える(見えない?)私にとっても、やっぱりネットはパラレルワールドだ。今こうして書いている私はネットの世界「こちら側」にいるし、実生活を「あちら側」として、何やら離れたところにあると感じている。

 梅田望夫さん「英語で読むITトレンド」 で、先月 ネット世代とPC世代を分ける「インターネットの隠れた本質」 がupされ、それに対するトラックバックを受けて、インターネット世代論・再び が一昨日付けでupされた。
 思いっきり単純化だが、Echoo! のトラックバック大会の最新テーマ ネットの自分 というところに行き着くのかな・・・と考える。「ネットの自分」「ネットの他人」「ネットという世界」に、どれだけ存在感を感じられるか。真剣に対峙できるか。

 梅田さんが提示しているのは、物心ついた頃からネットが生活に溶け込んでいた「インターネット世代」と、それ以前の「PC世代」の間には、感覚的な隔絶があるのでは、ということらしい。どんな違いかというと、「ネットの向こうに存在する不特定膨大多数への信頼の有無」であり、

ネットの向こうに存在する千万単位、億単位の見知らぬ人々(有象無象)やその知やリソースを、当たり前の存在として心から信頼できるのが「インターネット世代」、頭では仮にわかっても心からは信頼できないのが「PC世代」。

とのことだ。トラックバック元では、Programmer's Eye「インターネットを生活の場としてとらえる事ができるかどうか」デジモノに埋もれる日々「ネット上の対人関係に価値を見出せるかどうか」などとも表現されている。

 ハンドルネームを使うのをやめ、実名で専門分野に関する個人サイトを立ち上げた当初、これで私のリアル世界とネット世界はつながったと思っていた。でもだんだんと、そうでもないと思うようになった。
 期待していたほどリアル知り合いからの反応はないし、心配していたほど新旧の勤務先からの反応も(全く)ない。ただ、アクセス数や見知らぬ同業者からのメールは期待以上に多い。
 そして、当初予想していなかったことに、専門分野がまるで違う多彩な人たちとの、ネット上のみでの交流が広がった。そういう人たちとリアル世界で関わりあう事態はまず考えられないし、たぶんこれからも「こちら側」だけでのお付き合いが続くのだろう。
 この意味で、実名の人であっても、私にとってはネットの住人だ。
(ただ、先方は先方でリアル世界と接点があり、私は私でリアル世界とつながっている。このリアルどうしは同じ世界だから、互いが望めばすぐにでも「あちら側」で会えるんだなという親近感はある。それと、ハンドルネームの人は、いつでも「こちら側」で消滅して、また新しい名前で生まれ変わってくるという機会を留保している。実名の人は、少なくとも実名で生まれ変わってくることはないだろう。)

 これを、このblogの主題「サラリーマン専門家がウェブで自分の専門分野を語るための方法論」として考えると、こういうことになる。実名で専門サイトを立ち上げて、リアル世界での評価(プラスにしろマイナスにしろ)を期待してもたぶん期待はずれになりますよ。「あちら側」では、ネット住人が思うほど「こちら側」に価値を置いている人は多くない。ネットの世界だけで完結する価値を何か見出さなければ
 IT関連以外では、同業者のみで「ネットな人たち」仲間を十分集めるのは、まだまだ難しいのが現状ではないか。梅田さんが言われるように「インターネット世代」が育っているならば、期待してしまうけれど。

 で、あらためて 分析化学に携わるみなさんへ:サイト開設のお誘い を呼びかけます。

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2004.06.04

「小さい」って・・・そういう意味だったんですか

 前の記事でトラックバックした室井佑月さんblogの 匿名の功罪 は、こういう言葉で締めくくられていますが・・・

 本物の変態に遭遇してしまったときとおなじく、
「小さい」
 と小声でつぶやくしかないのか。今のとこ。

 えっ、これって、そういう意味だったんですか。「小さい」・・・(笑) (「心こそ大切なれ」さん)、小さい、と呟くかぁ(笑)(「アホが見ーるーブタのケーツー」さん)を読んで、やっと気が付きました。トラックバックしている皆さんのほとんどは素知らぬ顔っぽい。本当はわかっていて素知らぬ顔?
 私は何かを発見したらつい嬉しくなって書いてしまいますが、これ、発見でも何でもない、普通は瞬間的に笑えるギャグですか。今度からは、ひっそり一人でウケるようにします。真面目すぎるキャラですみません。

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2004.06.03

捨てハンドルネームと固定ハンドルネーム

 掲示板への捨てハンドルネームでの書き込みがひどい内容になりがちなのは周知のことで、blogの普及は一つの解決策として期待されている。ほとんど異論をはさむ余地のないこういう話も、時おり話題になって、ブロガーたちの共感が確認されるのは、大事なことだと思う。
 室井佑月さんのblog記事 匿名の功罪 へのトラックバックが静かに増え続けていて、今の時点で45届いている。「見ず知らずの人間のこ汚い部分を見せられた側の立場はどうやって守られるのだろう。まるで覆面した変態のあそこを見せられたような気分だ。」といった直截な表現で、ストレートに共感できる。
 木村剛さんの モノ書きの老婆心:「匿名性」を護るために の視点も重要だが、「訴訟を起こされる危険」が論点なので、多くのネット市民にとって、身に迫って現実的というほどではないだろう。また、「なかなか訴訟を起こせない弱い相手」にネットでの暴力が向いてしまう恐れもある。(でも、ブロガーの心構えとして銘記しておくべきことだと思う。)
 室井さんの記事は短くてスッと読める。色々な場面でリンクして使えそうだ。私もトラックバック。
 このように、プロの書き手の個性ある表現をリアルタイムで味わって自分も少しだけ参加できる、blogという場は面白いと思う。

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