April 2004
2004.04.30
匿名と実名を判別する基準 Ver.1
本館の 匿名のかたと実名のかたへ の補足です。私のサイト内では、私がネットで関わりを持つ個人について、次のような基準で匿名・実名を判断します。とりあえず思いついたことを挙げているので、今後修正する可能性があります。
初期値
誰でも漠然とやっていることでしょうが、インターネット上で継続的に表現されている人格に対して、私が最初に一応の匿名・実名の判別をする基準は、「人名として不自然でない氏名かどうか」です。ただし、自分は外国籍ですとか、珍しい名だけど本名ですとか断りが付いていれば、この限りではありません。
実名を名乗りたくない人の大部分は、実名でないことが一目瞭然なハンドルネームを使っています。人名として不自然でない氏名をハンドルネームにするかたもおられますが、そういうかたは、自分のサイト内の目立つ場所に明記したり、新しい場に入っていくときには実名ではない旨をまず述べる場合が多いように思います。
実名らしきハンドルネームを名乗る人たちは自分からその旨を申し出るであろうという性善説に基づいて、人名として不自然でない氏名のかたを、本人による否定がない限り、まずは実名と考えます。
なお、芸能人や作家が使用する芸名・筆名も実名の範疇ですが、自称芸能人や自称作家のかたが有名でない芸名・筆名を名乗られても、私は実名とみなしません。
専門情報の提供者を実名と認めて引用する基準
上に書いたのはほとんど手間をかけない方法です。たいていの場合はこれで十分でしょう。
しかし、信頼できる専門情報として私が 本館 で個人ページを引用したり紹介したりする場合は、次のような方法でサイト開設者が実名であることを確認します。
- オフラインで本人を知っている。(知り合いである。または、知り合いの知り合いである。)
- サイト内で所属先を明らかにしている。(ただし、実在することが容易に確認できる所属先であること。)
- サイト内から「自分の氏名+所属先」が記載されている別サイトにリンクして「これは私です」などと書いている。(所属先名で検索されたくない場合に使える方法です。)
- マスメディアに取り上げられている。
- サイト内に自著論文、学会発表、著書(出版社から刊行のもの)のリストがある。
- サイト内に所属学会名が明記されていて、その学会の名簿に氏名が掲載されている。
- (名簿を頻繁に発行しない学会の場合)サイト内に所属学会名及び自分が入会者氏名欄に掲載された学会誌の巻数・号数が明記されている。
- 上記いずれかの方法で実名と確認できる別の人のサイト内で、実名であることが述べられている。
これは一般的に考えれば厳しすぎる条件のように思われるかもしれませんが、分析化学という特定の分野に関わる専門家どうしの間に限れば、それほど非現実的な条件ではないと考えます。また、当人がサイト内で公開している専門的な情報内容は、存在確認を補強します。
ただし、上記に該当していても、ネット上で実名を名乗っていないかたは匿名と見なします。これは、当人が実名者として扱われたくないとの意志を表明しているものと考えられるからです。
「批判」に関連して実名と認める基準
私が匿名・実名を初期値よりも厳格に判断するもう一つの可能性として、blogに批判が書き込まれた場合があります。blogには専門性と関係なく誰でも書き込めますから、上に書いた確認法が一つも役に立たないケースもありえます。
書き込み者のサイト内に「出身学校名と卒業(または入学)年次」が書かれているかどうかは、かなり重要な判断材料になります。また、「勤務先でも出身校でもない公式団体への所属」も判断材料になります。
これらが下記のような方法で客観的に証明されている場合に、書き込み者を実名と考えます。
- 出身校の同窓会やOB会のHPに氏名が掲載されていて、自サイト内からそこへのリンクを張っている。
- スポーツ関係、芸術関係等の公式な団体や大会のHPに氏名が掲載されていて、自サイト内からそこへのリンクを張っている。
従って、こういう自己紹介がネットで掲載されていた期間がどのくらい長いかが、けっこう重要になります。期間が長ければ長いほど、もし○○さんが「なりすまし」であった場合には、当人や知人が気付いて抗議する確率が高くなるからです。
別法として、次のようなことも考えられます。
- 同窓会やOB会の掲示板で、「xx年卒の○○です」と自己紹介した上で、自サイトへのリンクを張っている。
- 同窓会の掲示板がない場合は、例えば ウェブ同窓会「この指とまれ!」 のようなサイトの出身校別掲示板も利用できる。
なお、最近さかんになってきたソーシャルネットワークによる認証も、これから利用可能になるかもしれません。
ネットでの個人認証の限界
ここに述べた方法の裏をかく方法はいくらでもあると考えられます。しかし、そういう細工をするためにはそれなりの手間がかかるわけで、そんな手間をかけてまで虚偽の実名を名乗る動機があるかといえば、たいていの場合は、あまり考えられません。
個人を完璧に認証するのは、実生活でも難しいものです。私のサイト内で「匿名・実名」を識別する基準は上記の程度であり、私が追求している厳密さもこういう範囲内であるということをお断りしておきます。
また、真に難しい判断が必要になる場合(現実にはあまり起こらないと思います)に私が根拠とするのは、確認できる事実のみです。「ネットで表現されている本人の誠実さ」「真実味」「存在感」などは、いっさい関係ありません。人間どうしの信頼関係を大切にするからこそ、厳密な判断においては、信頼関係に影響するようなことは材料にしません。
参考リンク
上記で例に挙げた「この指とまれ!」のblogの記事 なぜ実名主義なのか にトラックバックしています。
2004.04.25
「匿名か実名か」が意味を持つ条件
言うまでもなく、ネットでの発言すべてをいちいち「匿名と実名」に分けて考えるのは効率的でない。書き手が匿名でも実名でも別に関係ないと感じられる状況は非常に多い。
私のここまでの話も、「匿名か実名かが意味を持つ条件下」を想定した上での自説を述べている。個々のネット参加者によって、そういう条件が多かったり少なかったりして、その上で各自が匿名か実名かを選んでいる。
では、「匿名か実名かが意味を持つ条件」とはどんなものなのか、私なりの考えを整理してみる。番号は、私が重視している順。
1.単純に人間としての誠実さが問われる場合
匿名で他人を中傷することは人間として誠実でないと、一般に考えられていると思う。(たまたま現在世間的に関心を集めている問題があるが、私の匿名・実名の話は4月3日から始まっていて、この事件とは関係ない。事件以前から、「ネットの匿名性」で一番問題になるのはこの観点だ。)
2.情報内容の正確さが問われる場合
趣味的な情報なら、あまり厳密さは求められないだろう。
正確さが問われるのは、専門的な情報や、社会的混乱を引き起こしそうな情報の場合。人命に関わったり経済的損失が生じるかもしれない情報については特に。信頼性を判断する材料として、情報の提供者に関する情報は重要。
3.他人を批判する場合
これは1の「中傷」とは違って、「批判」。たとえば、相手と正常な対話が成立していて、批判することによって何かが生み出されそうな場合とか。対話する状況でないにしても、個人攻撃ではなく問題提起として価値がありそうな場合とか。
と言っても、本当に生産的な議論になるか、相手やその他の読み手がどう受け取るか、たいていは予測できない。1との境界があいまいなケースもありそうだ。どちらにしても、他者への否定的な評価を書く場合には、実名か匿名かが問われると思う。
4.本人の行動や責任が問われる場合
政治問題、各種市民運動、宗教や思想、倫理観、マナーなどに関わる議論の中では、しばしば「発言と行動の一致」「自分の発言に対する責任」が問われる。これらは匿名では証明のしようがない。
5.当事者であるか否かが問われる場合
たとえば、自治体の行政に対する意見を交換する掲示板などは、発言者がその自治体内の住民であるかどうかで発言の重みが違ってくる。特定の共通した立場で集まる場でも、本当にその立場なのかが問題視されることがあるだろう。匿名では自分の立場を証明できない。
6.自分が特別な立場にあることを前提に何かを主張する場合
高級官僚だとか弁護士だとか悪評高い組織の構成員だとか・・・つまり、社会的に注目を集めやすい立場であることを述べて、それによって自分の主張に説得力を持たせようとする場合。本当にその立場にあることが証明できなければ、砂上の楼閣みたいに思える。(でも、こういうタイプの個人サイトや掲示板内キャラクターもけっこう存在する。信じる気になれれば面白いのかも。)
主張をせず、単に職業にまつわる雑感をつづるサイトの場合は、実名・匿名はあまり気にならない。(ただし、自分の会社や業界の恥をさらすような内容となると別。こういう話は 前にも出ました ね。)
7.自分に能力や実績があることを前提に何かを主張する場合
たとえば、「ベストセラー本を書く方法」とか「莫大な資産を築く方法」とか・・・本当に当人がベストセラー作家や大金持ちであることが確認できなければ振り向かれないだろう。
でも、インターネット上で表現できる才能の場合は別。「しゃれたデザインのサイト」や「ページランクの高いサイト」などは、匿名でも十分に能力の証明ができる。このごろは公開できる情報量が飛躍的に増えているから、絵や写真にとどまらず、楽器の演奏やダンスなどの能力もネットで表現できる。
8.実名コミュニティ(非公開)へのフロントページ
というケースもあるだろう。非公開のコミュニティに実名のメンバーを集めたい場合には、誰かが実名で表へ出なければなかなか人が集まらないと思う。コミュニティに限らず、寄付や支援を求める内容のサイトの場合も、匿名では支持を得にくい。
番外:存在証明のしやすさ
実名を名乗っても、本当に実名だと証明するのが簡単な人も難しい人もいる。難しい人ほど、どうせ証明できない実名をわざわざ名乗っても仕方ないという考えに傾くだろう。
また、証明がしやすい状況というのもある。参加者が地域的に限定されていたり、特殊な層が集まっている掲示板などだ。このblogのテーマのように専門性の高い仕事内容を語る場合も、実名の確認はしやすい。
存在証明のしやすさは、実名を名乗る動機付けの強さに影響すると思う。
番外:法律に抵触する行為
誰かから訴訟まで視野に入れた抗議を受けた場合は、プロバイダが相手に実名を明かすだろう。本人が名乗りたいかどうかとは関係なく。そこまでの事態は、ここで考える範囲を越えている。
以上、たくさん並べたけれど、私がまず念頭に置いているのは2番の「情報内容の正確さが問われる場合」だ。本館の内容については、実名を名乗りながら書いていることを強く意識している。
ただしコンピュータ関連の知識については、自分は素人だと随所で断りながら書いている。匿名のかたのコメント・トラックバック・ホームページの情報も、ありがたく引用させてもらっている。私が書くコンピュータ関連の情報は、実名とか匿名とかうんぬんするレベルでないから。(素人なりに情報の正確さに気をつけてはいますが。)
次に身近に考えている観点は、3番の「他人を批判する場合」だ。blogをする人(主に固定ハンドル)にとっては、おそらくこれが最も意識されることだろうし、ネットでの匿名と実名 で集めたリンク先で述べられている意見も、ほとんどがこの観点だった。私のblogで問題になる状況もあり得ると思う。
2004.04.22
「実名ウザい。」
180度見方を変えて、匿名に肩入れした意見を書いてみる。
「名なしさん」だらけの掲示板では、なまじコテハン(固定ハンドルネーム)を名乗ると「ウザい」と言われる場合がある。同様に、ハンドルネームが多数派の場にいる実名は「ウザい」ものかもしれない。特に、実名vs匿名が話題になる場合には。
だいたい実名vs匿名の話題は実名の人から出るものだし、一方、固定ハンドルの人は、本来の意味での「実名と匿名」の間ではなく「固定ハンドルと捨てハンドル」の間に線を引きたがるものだ。
名なしさんどうし、あるいは固定ハンドルどうしで盛り上がっている場は、みんなが対等だ。社会的立場とか実績とは無関係に、発言内容だけで評価される。議論に勝っても負けても、得るもの・失うものはそれぞれに限定されている。
そこへ入ってくる実名者は、最初から有利な条件を備えている不公平な存在だ。自分のバックグラウンドを示すことができるし、「発言と行動の一致」を論拠付けることもできるし、自分の発言に将来的な責任を取ることもできる。
そういう有利な条件を持ちながら「匿名の人が実名の人を批判するのはよくない」などと言うなら、都合が良すぎる。
私がネットで実名を名乗る理由3 で書いたのは、匿名で発言していた私がキレてしまった話だが、裏を返せばキレてしまうようなことをされた話でもある。あのとき、私は匿名での発言の軽さをひしひしと感じていた。(議論相手からも、他の参加者からも。)
議論を、勝ち負けを決めるゲームのようにとらえるならば、実名vs匿名での議論はアンフェアな戦いだ。私はそう思うから、実名と匿名が入り混じって真剣に議論する場には、たぶんもう二度と参加しない。(そもそも議論する余裕がないので 他人を批判しない ことにしている。)
だいたい、私が実名を名乗っているのは、社会的な責任感とか、何がしかの立派な心がけからではなく、そのほうが自分がさっぱりするから。要は自分のためだ。(三中さん流キーワード。)
匿名の人のblogにもコメント・トラックバックを付けることがある実名の私は、たぶん多かれ少なかれ「ウザい」存在だと思う。それは自覚しておこうと思っている。具体的には、匿名の人が真剣に反論したくなるようなことは書かないということ。それから、匿名の人に「ウザい奴」として扱われても仕方ないと割り切ること。
下記の記事にトラックバックしています。
- 面とペルソナ
瀬戸智子さんの枕草子 より(4/20付け) - 匿名は強面
ネットde監視、地方議会 より(4/20付け) - ネット活動での匿名と実名
牧野貴樹さん の日記「好奇心の轍」より(4/21付け)
2004.04.18
「医薬品ができるまで」復活
医薬品ができるまで が復活しました。ホーライさんから長いメールでご連絡いただいて行ってみると、
だそうです。
まずは、よかった、よかった。大勢の支持者のみなさんがいらっしゃるのですから、どんな理由があったのかはわかりませんが、いきなりサイト閉鎖はないでしょう。
しかし・・・昨日からこのblogで騒いで、本館に こういうページ まで作った私は、なんだったんでしょう。
匿名・実名の問題とは関係ないとはうかがいましたが、この話題たけなわのタイミングでの閉鎖で、本当は少しは関係あるんじゃないかとか、ホーライさん的には関係なくても、他の専門情報サイトを開設している匿名のかたたちはどう感じるだろうかとか・・・いろいろ考えてしまいました。
本館のほう、この週末こそは「クロマトグラフィー101年」のテーマで書こうと思っていたんですが、来週まわしになりました。
私は、こういうのを使うキャラクターではないんですが、
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な気分です。一つじゃ足りないから
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これくらいですかね。
これからまた、気持ちを新たに、充実したサイトを続けていってください。
「匿名のかたと実名のかたへ」公開
匿名での発言に、「情報内容の正確さ」や「発言と行動の一致」といった責任を問うことはできません。匿名で発言する人は、そういう責任を負うことができない自分というものを自覚しておく必要があると思います。
一方、匿名の人が一連の発言で表現する人格には真実が含まれるし(上記責任を負わないことに対する自覚も含む)、匿名の人が提供するアイデアに大きな価値がある場合も少なくありません。
私は、「情報内容の正確さ」「発言と行動の一致」に対する責任とは切り離して、匿名のかたたちの人格を尊重する立場を取りたいと思います。これらの責任がないことを指摘されたからといって、匿名の人たちが人格を否定されたと考えてしまうとしたら、悲しいことです。現時点での考えを整理して、本館に 匿名のかたと実名のかたへ というページを作りました。
三中さんの日録 の 4月16日付け
「ぼくにとっては,〈匿名〉で何かを言ったりしたりするというのは精神的に緊張してしまって,窮屈なことこの上ない.〈実名〉の方がはるかにラクでいいでしょう.」
その感覚は、私にもわかります。今では、匿名で何か言いたいという気持ちになりません。
あらきけいすけさんの研究日誌(4月16日付け)
今話題になっている「自己責任」の話ですね。私は小心者で、こういう話題には関わらないようにしていますが、瀬戸智子さんは、あらきさんと似た立場から コメント を付けてくださいました。
2004.04.17
「医薬品ができるまで」突然の閉鎖
製薬会社に勤務するホーライさんによる「治験」に関するサイト 医薬品ができるまで が突然閉鎖された。ほぼ日刊ベースで更新され、記事の量も多い精力的なサイトで、昨日まで何も変わった様子は感じられなかったのに、いったいなぜ?
閉鎖の挨拶に「僕が4年間、ここで発言し続けたことが全て無意味だったということを痛感させてくれたできごとがあったためです」とある。
もしかして、私がこのblogで 2週間ほど前から書いてきたこと(実名と匿名に関すること)が原因では・・・そうならばたいへん残念なことだ。私は、匿名での発言がすべて無意味だなどとは考えていない。それどころか、ホーライさんのサイトは非常に有意義だ。閉鎖は思いとどまってほしい・・・という内容のメールをホーライさんに送信した。
ホーライさんからのお返事には
> サイトを閉じたのは、津村さんとは全然、全く関係の無い理由ですので、ご安心のほどを!
と書かれていた。何かわからないが、よほどのことがあったのだろう。あまりに突然すぎる。
「医薬品ができるまで」は、治験(新薬が世に出るために必要な臨床試験)に関わる製薬会社の社員向けで、専門的なことの解説や業界情報が主な内容だった。また、交流を重視しており、架空の会社「ホーライ製薬」にはハンドルネームの「社員」が多数登録し、「支店」まである。患者さんや家族による手記も掲載し、交流の幅は広かった。
匿名ならではの本音トークが多く、語り口はくだけていたが、よりよい薬や医療を作り出したいという願い、患者さんへの思いやりが常に感じられた。他者への批判を展開するようなサイトではなく、同じ分野の人たちが仕事にまつわる喜びや悩みを共有することが目的だったと私は思っている。
「匿名による専門情報サイト」に関する私見
ホーライさんは、私が書いたことはサイト閉鎖と関係ないと言っておられるので、「医薬品ができるまで」とは切り離して、一つの機会として、ここで「匿名による専門情報サイト」について私見を述べておく。
匿名では、情報内容の信頼性という点では、確かに評価は低くなる。責任を持って文章を公表したいと考えたとき、「匿名のサイトXでこう書かれている」と引用することはできない。
しかし、「考えるヒント」や「必要な情報を発見する手がかり」として匿名サイトが役立つことは大いにある。そういう場合、私は、引用自体は発信者が明示されているサイトからしかしないけれども、手がかりを与えてくれた匿名の方への敬意も表明したいと思っている。
たとえば、キャピラリー電気泳動に関するメモ では、 KITORAさんのblogの記事 がきっかけで書いたことを明らかにしている。
また、ネット上で表現されている個人の人格・人柄は、たとえ匿名であっても真実のものだ。だから、農薬分析への熱意を表している人として私は グレガリナさん を紹介したこともある。
このように、匿名による専門情報の提供であっても価値はあるのだ。特に、交流や共感が主目的ならば、匿名はほとんど障害にはならないだろうし、むしろ匿名だからこそできることもあるのではないか。
名残惜しいですが・・・
私のblogの一番の願いは、技術系のサラリーマンが誇りを持って働くために、ネットでの情報発信が役に立つのではないか、そのための方法論を提案していこう、ということだ。ホーライさんの活動は一つのユニークなスタイルであり、いずれここで紹介したいと思っていた。まさか閉鎖と同時に紹介することになるとは。たいへん残念だ。
でも、ホーライさん自身が、深く考えた末に決められたことだろうと思います。今までありがとうございました。お疲れさま。
私は他業界の人間だが、製薬業界内のみなさんも、突然のことに驚き、惜しんでいるようだ。見つけた範囲内のblogにリンクしてトラックバックさせていただきます。
僕を支え続けてくれていたいもの
今週のモニタリング報告書 より(4/17)
「医薬品ができるまで」と「ホーライ製薬」の終焉
今週の監査 より(4/17)
2004.04.16
実名を名乗っていてうれしいこと
三中信宏さんの日録 の 4月15日分 で、私がネットで実名を名乗る理由3 へのコメントをいただきました。
実名で書いている私としては、これだけさっぱり言い切る意見を読むと、とてもうれしいです。私自身にはとても言えませんけど・・・。ココログで書いていて、コメントもトラックバックも受け付けてますから、怖いです。それに実際、友好的に情報交換するぶんには、相手が匿名のかたでも私はあまり気になりません。
でも、個人サイトを立ち上げて以来、実名でネットに現れている自分を認めてもらえてうれしい、と感じたことは何度もあります。最初にそう感じさせてくださったのは 竹中明夫さん でした。(実名だからまともに相手していただいたと考えたのは私の勝手な解釈で、竹中さんは区別しておられないかもしれませんが。)
あまり大きな声で言う人・言う場合は少ないですが、実名の人は、相手が実名か匿名かで違う付き合い方をするものではないでしょうか。少なくとも私はそうです。気にしていないとは言っても、少しは(場合によっては大いに)付き合い方が変わります。
議論していて理性をなくしたり、自分の発言に責任を取らないという態度は、実名か匿名かよりも当人のパーソナリティによる部分のほうが大きい、ということには私も同意します。ところが、そのパーソナリティというのが、自分自身は知っているつもりでも、周囲には簡単にわからない、すなわち情報の非対称性が存在します。
こういう場合、「自分の行為によって自分が失うかもしれないもの」を明示的に示すことは、コミュニケーションに要するコストを下げる働きがあると思います。
理屈は置いておいて、実名でネット上に現れるのは思ったほど怖いことではなく、それに対して、うれしいことはたくさんあります。これは実名を名乗るようになって初めて知りました。
三中さんの言葉を、以下に引用します。ココログでここまで書くと抵抗がありそうなのは予測しますが、私以外への批判コメント禁止 のルールに基づいて、私のblog内での批判コメントは御遠慮ください。「引用した私」への批判も、まぎらわしいですから御遠慮ください。
―― ですから,私がいま運営しているメーリングリストでは,発言に際しては必ず「実名と所属」を名乗ってもらうことを義務づけています.あえて匿名またはハンドルネームで参加したいという希望者はときどき出現します.その際には,「投稿を読んだり過去ログを検索したりするのはかまいませんが,議論には参加しないでください」とクギを刺しています.匿名であったとしてもリード・オンリーの会員としてその「場」にいることそれ自体はとくに問題ないですね.道端に〈石〉が転がっていても誰も気に留めないのと同じことです.しかし,〈石〉には〈人〉に対して発言する資格はまったくありません.ですから,〈人〉どうしの議論に〈石〉が混ざるのは御法度なのです.
―― メーリングリストでの〈匿名会員〉に関する上のような方針を公開したところ,とある別メーリングリストの管理者氏から,参考にしたいので転載を許可してもらいたいという依頼を受けたこともあります.場合によっては,こういう指針が有効であるケースもあるのかもしれません.
―― もうひとつ,「匿名の人は,実名の人にまともに相手にしてもらえなくなるような行為をしてしまいがちである」という津村さんのコメントについては,どれくらい一般的に成り立つのかな.〈実名の人〉であってもそういう行為をしてしまう例は少なくないので,最終的にはパーソナリティ(あるいはエキセントリシティ)の問題かとも思えます.もちろん,匿名であるがために心理的ハードルが低くなっているということは十分にあり得ますがね.
2004.04.15
ネットでの匿名と実名
実名のほうに少々肩入れした自説を書いてみる。
私は、匿名で書かれていることは信用できないとか、匿名だと理性をなくしがちなどと一律に考えてはいない。現時点で、インターネットの世界で優勢な見解は「実名を名乗っていない人であっても、まとまった人格を継続的に表現していれば完全な匿名とは異なる。そういう人格は尊重されるべきである」だと思うし、これに私も同意する。実際、大勢の匿名の人たちが作り出したコンテンツを役立てたり交流を楽しんだりしてきた。自分自身が匿名だったこともある。
では、匿名の人は実名の人と完全に対等に話ができるのか。「できる」と言う人もいるかもしれない。でも、私は「できない」と思う。といっても、匿名の人は実名の人を絶対批判してはいけないとか、そこまでではないはずだ。
どこらへんまでなら許されて、どこから先は踏み込んではならない領域なのか。こういうことについて整理された議論は少ない。私が拾ったものをリンク集として下にまとめてみた。
どの意見も「ネット上でのマナーとして」実名と匿名の違いをわきまえるべきだ、あるいは、実名でしないようなことは匿名でもするな、という話になっている。私も、それぞれの人たちが示している線におおむね賛成する。
ただ、私が 前回の記事 で書いたように、「匿名で発言すると問題のある行為をしてしまいがちな人は、実名で発言することで自制できる」という観点から実名を勧めた意見は見つからなかった。
考えてみれば当たり前のことで、「自分は匿名で発言していたときにキレてしまったことがあるので実名を名乗るようになった」とわざわざ告白する必要性は、たいていの人にはない。匿名の恥はかき捨てだ。黙って実名を名乗ればいい。
このblogの場合は、普通のサラリーマンが自分の専門分野についてウェブで語るとき心理面で負担になりそうなことを検討して方法論を提案するのが目的なので、「世間体を気にかけながら書く」とか「小心なサラリーマン専門家に何が書けるか」とか、普通は話題にならないような楽屋裏のせこい話が多い。私が昔の体験を書いたのも、テーマに添ったものだ。
実名と匿名の違いに着目したリンク集
匿名サイトの気軽さと、はかなさ
岡山大学文学部心理学講座 長谷川芳典さんのじぶん更新日記、98/10/20付け。この文章で、ほぼ集約されていると思う。
- 匿名で批判を続ける人は、HPの存続に当たって自分を守る必要がない。イヤになったらヤメしまえばよい。いつヤメても私生活では何の不都合も生じない。気が向けば別のサーバーから別のHP立ち上げればよいだけ。いっぽう、実名で批判を受けた人は、枝葉末節な点に至るまで反論や追加の説明を加えなければ、実生活全般にわたって信用を失うおそれがある。極端に言えば自分のクビをかけて、発言の内容の社会的責任を負わなければならない。この点、匿名サイトはまことに気軽なものだ。
- 匿名のサイトの主宰者は、そこに記されているコンテンツの範囲でしか批判されない。これに対して、実名のサイトは、HP以外のあらゆる著作物や発言を引用して批判される。
- 匿名で批判する人は、じぶんの主張内容には何の体系性、何の一貫性がなくても、相手の主張をローカルな(つまり断片的な)理屈だけで反論することができる。違う基準(スタンダード)で反論する時には、別のハンドルを名乗ることだってできる。
高木浩光@茨城県つくば市 の日記(2003年5月29日)
下記の引用中、強調は津村による。的確なルールだと思う。
ハンドルネームと匿名。ネットではどちら
イー・ウーマン のサーベイリポートデータベース、2000/10/9 - 2000/10/13の話題。一読者の投稿だが、ごく常識的な意見が素直に述べられていて、端的にまとまっている。
99/01/07 02:23 RE: 青酸カリを提供したネット・コミュニティ
HotWired Japan のNews Watchers' Talk バックナンバーより。船田戦闘機(メディア技術者)さんの発言。「・・・風潮はあっていい」という言い回しが、私の感覚にもぴったり来る。
・匿名で発言する自由は認められるべき
・でも実名でのコミュニケーションのほうが信頼される風潮はあっていい
といったところです。
blogの未来は参加者が創る[ゴーログ]
週刊!木村剛 2004.03.16 付け記事。ココログ内で3月に匿名vs実名が話題になった発端記事。木村剛さんの社会的な御主張は、新聞、雑誌、インターネットでよく読み、著書も1冊は買っていますので、ひととおり知っているつもりです。しかしここでは実名のブロガーどうしという立場でトラックバック。
気に食わないのであれば、そのBlogを読まなければよい――それだけの話です。わざわざアラシにくる必要はどこにもないはずです。実生活でも、嫌いな人とは付き合わないでしょう。でも、よほどの変人でない限り、嫌いな人であってもその人が大事にしているプライベートな人間関係を壊しにはいかないはずです。でもネットでは、それが簡単にできてしまうし、やってしまう人たちがいます。
2004.04.14
私がネットで実名を名乗る理由3
今回の話は、私が匿名だったときのこと。
匿名といっても、「名なしさん」や「通りすがり」ではない。固定したハンドルネームを名乗っていた。
blogをする人はたいていハンドルネームを使うから、説明するまでもなくわかってもらえるだろう。リアル世界で口にしたら気恥ずかしくなるような名前であっても、書いたものが増えるほどに、本人にとってはその架空の自称への愛着が深まっていく。
ハンドルネームどうしで火花の散るような応酬をしている人たちを見かけると、経験のない人には、オンラインであんな遊びみたいな名前を呼び合ってどうしてそこまで真剣になれるのかと不思議かもしれない。でもそういうものなのだ。2ちゃんねるのような固定ハンドルの少ない掲示板でさえ、「発言番号5番」とかで名指し批判されて熱くなっている人を見かける。
洗練された議論相手(実名)との出会い
私がハンドルネームを使って何をしていたかというと、ある社会問題に関して、二つの完全にメンバーの異なる掲示板で議論をしていた。匿名を選んだのは、立場上、社会問題に関して実名で発言するのははばかられたからだ。
私が参加していた片方の掲示板で頻繁に書いていた人(実名の男性)は、議論相手として非常に魅力的だった。ネットでありがちな議論パターンに、本筋と関係ないちょっとした表現にこだわって長々反論するとか、相手の発言を逐一引用してコメントしなければ気がすまないとかいうのがあるが、彼は違っていた。基本的に相手への反論でなく完結した自説を述べるスタイルで、それぞれの発言を単独で読んでも読者に有益さを感じさせた。(これは私のblogにもできるだけ取り入れている。)
それから、相手の真意を読み取れずにポイントをはずした応酬をするというのもよく見かけることだが、彼には全くそういうところがなかった。掲示板の中で、私の発言に対して枝葉末節にとらわれた答えを返す人もおり、同じ文章を読んでも人によってこんなに読解力が違うのかと感じた。後にも先にも、この人ほど洗練された議論相手と話したことはない。
前回書いた事件 をきっかけに、実名の人が匿名の相手と真剣に議論する気持ち悪さを私はわかっているつもりでいたから、彼に対してはメールで職場サイト内の自分のURLを示して自己紹介した。
ハンドルネームでの人格を蓄積した一年間
そういうわけで、私は約一年間ほど、その社会問題に関して議論しながら色々と勉強した。二つの掲示板に出入りした理由は、議論相手として面白い彼がいるほうの掲示板はかなりレベルが高くて、私のような初心者は、ひととおり疑問が解決するともうあまり意味のある発言をできなくなったからだ。途中から私は、一般的な話題の多い掲示板に発言の場を移した。
一年経って、一応自分としてはまとまった知識を得られたし、個人的な事情で忙しくなりそうだったので、このテーマでの発言に区切りをつけようと考えた。そこで、レベルの高いほうの掲示板で締めくくりの挨拶をした。色々教えてもらった御礼を述べてきれいに終わるつもりだった。
思いがけない批判の応酬
ところが。
ずっと有意義な議論を続けてこられたと(私としては)思っていた彼が、いきなり厳しい口調で私を批判した。わけがわからなかった。
ここで私が実名であれば、「どうしてそんなことを言うのですか?」と冷静に返していたと思う。しかし、匿名であるという甘えと虚勢から、思い切りこじれる反撃をしてしまった。つまり、「そんなことを言うあなたはおかしい」という人格攻撃をしたのだ。しかも単純に「おかしい」と言うのでなく、レトリックを凝らして何回かの応酬をするという形で。
はたから見ると何のことやらわからないやり取りの末、どうやら、私がもう一つの掲示板でしていた発言に関して彼が単純な読み違いをしていたことが根本原因みたいだとわかった。(私の筆力も乏しかったとは思うが。)
こんなことだったのか、アッハッハ。と普通の会話なら笑って終わるところだが・・・甘いことに、私は一瞬そう期待した。
予想しなかった結末
そうはならなかった。
彼は、今度はもっと根本的な読み間違いをして、自分の主張を貫いた。この読み間違いは、きっかけとなった読み間違いとは異なり、確信的で芝居じみてさえいたと私は思う。
先に書いたとおり、この人は常に議論の的をはずさない洗練された論者だったから、こういう挙に出たのは私には驚きだったし、実名と匿名の間の壁を再び思い知ることになった。
もとは小さな読み違いであっても、私は過ぎた言葉で人格攻撃をしてしまっている。実名も所属も明らかにしている彼が今さら間違いを認めることは、確かにできないだろうと思われた。私も一年間まじめに勉強したり議論したりして、ネット上の人格として十分確立していたつもりでいたが、前回も書いたとおりそれは過去のことでしかなく、ハンドルネームの私はいつでも消えることができた。
結局、私は彼の話に合わせて自分の誤りを認めて最後の発言をし、議論はさっぱりわからない終わり方をした。
こうして私は実名を名乗るようになった
今回の話と前回の話、共通して導かれる教訓は、
匿名の人は、実名の人にまともに相手にしてもらえない場合がある。
あるいは
匿名の人は、実名の人にまともに相手にしてもらえなくなるような行為をしてしまいがちである。
ニワトリと卵のようなもので、どちらが先かはわからない。
どちらが主因であろうと、自分がこういう事態に陥るような性格で、かつ陥るのがいやなら、実名を名乗るのは、最もシンプルな対策だ。
そういうわけで、実名の今、私は発言できる範囲を自らかなり限定しているけれども、気持ちは匿名のときよりもずっと自由でいる。
2004.04.10
私がネットで実名を名乗る理由2
私が加入していたある専門家団体でのできごと。その団体は大きめのサークルという感じの任意団体で、啓蒙や社会的提言を目的として、会員の書いた文章を集めた機関誌を発行したり講演会を開くのが主な活動内容だった。機関誌の内容の一部はホームページでも公開していた。
あるとき、「匿名(ニックネーム)の一市民」を名乗る女性---仮にAさんと呼んでおく---が団体の掲示板に書き込みをしてきた。団体のホームページ内で掲載されている解説記事の内容に非常に問題がある、どういうつもりでこういう文章を掲載しているのか説明してくれ、といった文意だった。
実名の個人と団体に、匿名の人が議論を挑んできた
問題の解説記事とは、ある医薬品に関していくつかの資料を引用しながら述べたものだった。文章全体としても結論としても、「この医薬品は、使用する人に深刻な健康被害を与える」という主張になっていた。
Aさんは、その医薬品を推進する立場のホームページを開設している人だった。Aさんのサイトでは、その医薬品を使用するメリットとデメリットがわかりやすく詳細に解説されていた。普通の一市民ではなく医療関係の専門家に違いないと思われる知識の深さ、また、本当に医薬品を使う人の立場に立った思慮の深さがうかがわれた。
私はそれまで特段その医薬品に関心があったわけではなく、問題の解説記事も読んでいなかった。記事を書いたのは、Bさんという実名の専門家だった。Aさんのサイトと比べながら読んでみると、バックグラウンドの違いは歴然としていた。Bさんの記事は、別の団体が集めた資料をもとに、その団体の主張をそのまま紹介したものに過ぎなかったから。
団体はAさんの申し入れを無視した
Aさんの書き込みに対してBさんが掲示板で返信したが、Aさんは納得せず、個人でなく掲載した団体としての見解を示せと要求してきた。しかし団体としては反応しなかったので、Aさんは自分のホームページ(1日1000ヒット)で、団体とBさんを名指しする批判を掲載し始めた。そして団体内部のメーリングリストでは、ある程度ネット歴がある人なら誰でも想像がつくようなすったもんだが起こった。
途中は省略するけれど、結果としては、団体は掲示板を過去の発言も含めすべて削除した。そして、機関誌の記事をホームページに掲載する期間を限定することにして、Bさんの記事はその期間を過ぎているという理由で(つまり、Bさんの記事が妥当かどうかという議論は抜きで)、他の古い記事とともに削除した。
表向きは全く無視された形のAさんは、自分のホームページでしばらく批判文の続きを書いていたが、完結せずに止まってしまった。
有意義な議論になったはずなのに
私が今でも残念に思うのは、ちゃんと議論が行われれば、その医薬品について一般の人がより深く理解できる機会になったはずなのに、そうならなかったことだ。
なぜ団体は、Aさんに対して全く反応しなかったのか。内部には、Aさんが匿名だからだと説明された。ちゃんと名乗っている相手であれば、たとえ普通の一市民であっても、ネットでの問いかけに対しては団体としてネットで何らかの反応をするのが礼儀だったと思う。記事を書いたのはBさん個人だが、機関誌やホームページで掲載したのは団体だったのだから。
匿名と実名の間の大きな隔たり
この事件をきっかけに、私は、匿名と実名の間の厚い壁を意識するようになった。匿名どうしまたは実名どうしで話すときにはほとんど意識しなくてもいいことが、いざ匿名vs実名での激しい議論になったときには、強烈に効いてくる。
たとえ一日1000ヒットのサイトのオーナーであろうと、Aさんは匿名だった。充実したサイトという実績は、Aさんの過去を映すものではあるけれど、未来のことは全く保証しない。明日にはAさんはサイトを閉じてしまうかもしれない。
それに対して、Bさんは別に有名人ではないけれど実名だった。医療関係の専門職として、所属する病院の職員や患者さんには名前が知られている。Bさんの氏名は、Bさんの一生と共にある。
つまり、議論によって優劣がつく場合、Aさんの失うものに対してBさんの失うものはかなり大きいのだ。これは対等に議論するには不公平な条件だ。
実名で行くか匿名で行くか
こういう経験から私は、これからネット上でまとまった人格を表現しようという人は、実名で行くか匿名で行くか、早い段階で自分の中ではっきりと決めておくほうがよいと思う。
「実名」というのは、いきなり本名を書くという意味ではなく、ゆくゆく、実名を出すことになったとしても困らないように心構えしておくということ。こういう意味では、けっこう多くの人が「実名」ではないかと思う。Aさんのように徹底して匿名を貫く人のほうがむしろ珍しいかもしれない。(彼女は個人的なメールでも全く名乗らなかった。)
ところで、完全に匿名の人から激しく批判されるというのは、ものすごく気持ち悪いものだ。これは、実際に経験した人でないとなかなか分からないと思う。団体の中では、Aさんの正体に関して、実は製薬会社の男性社員だとか、複数の人物が作り上げている架空の人格だとか、元過激派だとか、ありとあらゆる憶測が飛び交った。
また、匿名で発言すると、リアルな人間関係では使わないような激しい言葉を使ってしまいがちだ。Aさんは最初はまあ礼儀正しかったが、だんだん挑発的な言葉づかいになった。相手にされないことへの苛立ちがあったためとも思うが、挑発的になるほど、実名の側では無視が妥当という意見が優勢になった。
おまけ
なお、この一件は私に「専門家が組織の名を借りて発言することの危うさ」を痛切に感じさせた事件でもあった。Aさんのやり方はともかく、主張の内容は傾聴に値するものだったから、私はBさんには自ら記事の内容を検証しなおした記事を書いてもらいたいと思った。また、団体に対しても、Bさんがそうするように促すか、あるいは他の会員が書くかしてほしいと期待した。
しかしそうはならなかったし、私も医薬品が専門ではないのでできなかった。つまり、一般の人から見れば、専門家団体が発行する機関誌の記事は、一人の専門家の発表したものより信頼できそうに思われるにもかかわらず、実態としては内部でのチェックが働いていないどころか、発表することへの覚悟も十分でなかったのだ。Bさんが一人でやっていたなら、もっと覚悟が必要だから、ホームページでの発表はしなかったと思う。
先月、「専門家は個人の責任で情報発信するな」をめぐる一連の議論 が起こったとき、自然と私はこの一件を思い出していた。
チェック機能が十分働いていない組織の名のもとで専門的な発言をするのは危うい。専門外の人に過度の間違った信頼感を持たせてしまう。水面下で他者の力を借りて自己点検するのは有意義だけど、組織の裏付けがあるかのような物言いをするのは慎むほうがいいと私は思っている。(繰り返しになるが。)
2004.04.03
私がネットで実名を名乗る理由1
気の小さい雇われ専門家の私がなぜ実名を名乗るようになったのか。ほとんどの人にはどうでもいい身の上話をしてみる。これは3記事にまたがる予定の、長い話。
単純な成り行き上の理由
一番単純には、私が個人ページを公開した経緯 で書いているとおり、もともと前の職場のページ内で公開していたコンテンツがあって、それをインターネット上に残したくてサイトを開設したからだ。ちょっと前まで実名で公開していたものを、急に匿名になって公開し続けるのも不自然かと思った。
二番目に単純な理由は、私が論文を書いているから。それらの論文について書くとき、もし匿名だったら、自分の仕事なのに他人の仕事であるかのように引用することになってしまう。それは、ウソとまで言えないかもしれないけれど、ウソに似た行為だと思う。
情報の質向上のため
私は、誰かに利用してもらえることを励みにしてサイトを作成している。そして、各ページの内容は一般向けではなく同業の専門家向けだ。最初は仕事上の必要から検索で見つけてもらい、役に立ちそうであれば、学会誌や業界紙を読む感覚でときどき再訪してもらえればうれしい。
こんな感じで利用されることを想定したとき最も重要なのは、私の提供する情報の利用価値が高いかどうかだ。
情報内容そのものの質を高めることは、そう簡単でない。でも、情報の提供者についてできるだけ詳細に明らかにすることは、最も簡単に実行できる利用価値向上の方法だ。そういうわけで、実名と共に、略歴など、差し支えない範囲で明らかにしている。
最高の個人情報流出対策として
実名を名乗るのは、個人情報の流出を防ぎたいからでもある。それは変だと思われるかもしれない。個人情報を流したくなければ匿名でと考えるのが普通かもしれない。
でも、実名を名乗ることによって、流出してもかまわない情報しか流さないよう強く自己規制できる。私の経験では、匿名(ニックネーム)で書いていると、実名では書けないことまでつい書いてしまう。そのニックネームがある日もし、不本意にもいきなり実名と結びついてしまったらどうなるか。そういう事態に備える方法の一つは、絶対に実名がわからないように防御することであり、もう一つは、いつ実名と結びついても困らない情報しか流さないことだ。
実名と結びついても困らない情報だけを流すなら、いっそ実名を出してもあまり差し支えないと思う。
身の丈に合った自分を表現する
主に他人と議論になってしまった場合にありがちなことだが、自分のバックグラウンドを示して自分の主張に説得力を持たせたいと考える人がいる。周囲から高く評価されているとか、こんな成果を上げたとか、有力者と知り合いだとか、学歴があるとか。
でも、匿名でそんなことを書いても確かめようがない。そんなことを持ち出して相手を説得しようとするのは、見苦しい態度だと思う。
では、ネット上で表現できるだけの材料で自分のバックグラウンドを示すならどうか。議論になっている分野に関して深い知識があることを掲示板やホームページで日頃から示している人は、その周辺の常連から篤い信頼を得ているものだ。そういう人たちは貴重な存在で、大勢の匿名の人格者がネットを豊かなものにしている。ただ、そこまでの信頼を形成するためには、分野にもよるけれど、だいたい年単位、少なくとも月単位の時間がかかる。
そんな時間をかけずに、ネット上で急速に存在感を出すことも可能だ。単純に、ネットにつぎ込む時間と手間を増やせばいい。でもそうすると、ある矛盾が生じる。それは、ネット上に高密度に現れることは、リアル社会では必要とされていない(ヒマな)人物であることをうかがわせるということだ。
熱い議論の中で、前述の「確かめようがないバックグラウンド」と「ヒマさがうかがえる高密度な書き込み」をセットでやっている人を見かけるたび、私は何ともいえない見苦しさを感じてきた。正直に言うと自分自身、匿名で発言しているときに、ついこれに類することをしてしまったことがある。
大多数の人は、そんな見苦しいことはしない。でも、私はしてしまう性格だと思う。実名で時間をかけて作成したネット上のコンテンツがあれば、そういうことを避けられる。
一番根本的な理由
最後に、私の名前は私のものという気持ちがある。自前で分析機器が買えるわけでもないし、給料がもらえなくなったらたちまち困窮するような身分ではあるけれど、自分の名前は自由に使いたい。論文その他の文書用として貸すことがあるにしても、だからといって名前が組織のものになってしまうことはないだろう。・・・という単純で根本的な理由。
以上が私が実名で書くようになった理由だが、転機となった重要なエピソードが二つある。それについてはまた。
(ココログ内では1月末ごろ ネットで実名を名乗らない危険性について へのコメントとして実名・匿名の議論がありましたので、トラックバックさせていただきます。)
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