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2004.03.07

私がいる業界の場合

「専門家は個人の責任で情報発信するな」という徳保さんの発言に対して、あちこちのblogや日記で強力な反対意見が多数書かれた。(この話題について読むのが初めての方は、まず 前記事 をどうぞ。)「そこまで会社に気を使う必要はない」「個人の発言によって会社が損害を受けたとしても、それは本人が会社で立場が悪くなるなどのリスクを覚悟の上でやることだから、本人の自由だ」「表に出たら困るような実態があることのほうが問題で、隠すことを強制したらむしろ改善が遅れる」などの意見もかなりあった。
 私は 組織の中の研究者・技術者がウェブで語るとき で、「専門家としてレベルが低いとみなされそうなことは書かないのも重要だと思う。自分が恥をかいてすむことでない。会社のサービスや製品に不信感を持たれるような内容では、会社はひどく迷惑する」と書いている。こういう考えの背景について、よその業界の人たちにちょっと説明しておきたい。業界によってずいぶん常識ラインが違うようだから。

 私がいるのは化学分析業界だ。私がどんな仕事をしているか、一つの実例を挙げる。
 4年前のこと。調理用の使い捨て手袋の中で、ある材質から作られているものの使用を自粛せよと厚生省(再編前)が通知を出した。
 調理用の使い捨て手袋というのは、食材を盛り付けたり手でこねたりする時に使う、塩ビやポリエチレン製の手袋だ。驚くほど広範囲に使用されている。コンビニ弁当・仕出し弁当・駅弁などの弁当類、学校給食や病院給食、外食産業、対面販売の食品の小分けなど。
 使用自粛通知が出たのはDEHPという物質が入った塩ビ手袋。この種の手袋で弁当や給食を製造すると、毎日食べても人体に影響がないとは言い切れない量のDEHPが溶出して食品に混入するとわかったからだ。
 通知の影響を受けた業種は多かった。DEHP入りの塩ビは手袋素材の中で最も多用されていたから、小さな給食室に至るまで日本中で対応が行われた。このことによって一番被害を受けたのは手袋業者だった。それまで大量に使われていたものが急に使えなくなるのだから、損害はたいへんなものだったろうと思う。(食品用以外には使うことができるから、他用途へ回されたのだろうけど。)
 このDEHPを分析したのが、私たちの研究班だった。

 世の中に出回る商品やサービスには、素人でも簡単に良品と悪品を見分けることができるものも多い。そういうものについては「プロの技」や「専門家への信頼」のような漠然としたものはあまり意味がないかもしれない。
 でも、分析結果はどうか。たとえば、鳥インフルエンザやBSEやダイオキシンについて、核心部分の情報はどんな人たちが生み出しているのか、皆さんは考えてみたことがあるか。ウイルスとかプリオンとか微量物質といった目に見えないものについて、検出したとかしないとか言う。その結果は、総理大臣にだってくつがえすことはできない。そして、その結果によって、莫大な金額が失われたり、会社がつぶれたり、人が不幸になったりもする。
 あるいは、仮にあなたや家族が深刻な病気を告げられた場合。告げるのは医師だけど、その告知に至った根拠の核心部分は、おそらく検査技師が出しているだろう。

 こういう仕事をしている人たちが、ウェブでいいかげんな仕事ぶりをうかがわせるようなことを書いていたらどうなるか。笑って読み流す人も多いかもしれない。でも、会社が倒産したり病気に苦しむ人にとっては腹立たしいに違いない。
 どんなに手順書や管理職がしっかりしていても、手足を動かして検体に試薬を加えたり分析機器にかけたりするのは一人一人のスタッフだ。末端の技術者に至るまでちゃんとしていなければ、分析結果の信頼性はゆらいでしまう。
 私自身も、DEHP入りの手袋の返品で困った人たちのことを考えると、専門家として信用をなくすようなことは一生(退職してからも)絶対書けないと思っている。DEHPの件は、今では私たちの研究班とは独立の研究班が追試実験して、やはり許容量以上が溶出することが確かめられている。でも、行政措置が行われた時点では、私たちの研究班のデータがすべてだったのだ。

 今の世の中で、分析結果が経済や人命に与える影響の範囲はとてつもなく大きい。でも、業界外のみなさんのほとんどは、実際に分析をやっている特定の個人の名前を一つも挙げられないと思う。特定の分析機関の名前すら一つも知らない人が多いと思う。それでいいのだ。
 だから分析業界の人には、自分がウェブ上で職業を明らかにして何か書けば、読む人にとってはたぶん自分が唯一の「分析屋」代表例になってしまうことを念頭に置いておいてほしい。これまでもこれからも、新聞やテレビでは常に何らかの分析結果が話題になっているだろう。各時期において焦点が当たっている分野の現場には、おそらく休日返上・連日残業の技術者たちがいる。そういう人たちの苦労を傷つけるようなことを書いたら、きっと後悔するでしょう。

 組織の中に問題があっても隠しておけと言っているわけではない。問題があればまず組織の中で解決の努力をすべきだ。そして、どうしても自分の主張が取り上げられなければ、制裁覚悟でウェブで内部告発する人もいるかもしれない。それも一つの道だ。
 でも、日々の不満の単なるはけ口や、あるいはサイトへの客寄せのために、自分の組織の分析結果に対して不信感を持たれるようなことは書かないでほしい。

 私はインターネットでしゃべるにしては相当固いことを言っていると思う。でも、この姿勢にはそれなりの背景があるのだ。ネット文化がますます普及して、「ありのまま」こそが最高であるという風潮は今後も広がっていくと思う。そんな中でも、分析屋は最後まで「信頼を重んじる職種」であってほしい。

(一般向けに分析化学のことを書いたのは初めてだ。これからもあまり書かないと思う。私のサイトは基本的に同業者向けなので。というか、やっぱり最後は同業者向けになってしまった。)

関連リンク

  • お庭のこっこ
     細胞検査技師 高山須実子さんのホームページ。細胞診についての一般向け解説。特に化学分析業界の人には、profile and... に書かれていることは共感できると思う。これは日頃自由に論文やネットでの自己表現ができているという研究者のみなさんにも、ぜひ読んでいただきたい文章だ。なお、臨床検査技師さんたちはリンクリングを作っていて、現在57サイトが登録されている。

  • インターネット随想
     元地方衛生研究所職員、クロやんさんのページ。一般向けに書かれていて親しみやすい。分析屋という職種に興味を持ったかたはこちらへどうぞ。(ご注意:音楽が鳴ります。)

  • 我々は奴隷か?否。
     崎山伸夫さんのBlogの記事。今回書いたような論点について最も詳しく書かれているから、トラックバック。

  • 食品中のフタル酸エステル類と塩ビ手袋
     塩ビ手袋の一件についてもっと知りたい方はこちらへ。

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Comments

「化学分析業界」というものに関する理解が深まりました。:)
私の場合は、このようなことを聞くほどに、内部の人の能力を「見たい」という気持ちが高まってしまいますけれども。

確かに Web 上で自分の専門について記されている方は少ないような気はします。その主は「こっぱづかしい」(「照れ」の方です)というのが多いような気もしますが^^;。

そういった方の Web ページでアホっぽいことが書かれていても、それでその方の専門における能力を判断する人はあまりいないように思います。

今回のテーマに合わせて、自身の専門分野に触れた場合についてですが、そこで誤りを書いたら場合によっては業界自体への信頼性に疑問を持つ方もいるかもしれないというのはおっしゃる通りです。しかし、通常、信頼性は初稿の誤りの数よりもそれに気付いた際の対応により決まってくるように思います。
なぜなら専門分野の研究者の集合の中でも誤りを指摘し合って議論がなされているはずな訳で、それをより広い範囲で行う可能性を求めて Web を利用しようとされている(はずな)のですから。誤りが無い情報発信だけをしようというのであれば、それこそ組織内と同様に査読が何重にもなされるのではないかと思いますし。

初稿での誤りが、その専門分野に置ける初歩の初歩といえるものだった場合、「誤り」自体が信頼性を落とすかもしれませんが、そのような場合、実際に信頼に足らなかっただけですので、それは落ちるべくして落ちた信頼だろうと思います。

現在の読者(というよりは世論かもしれませんが)は、それくらいの判断力は持っているのではないか?という一つの意見でした。

Posted by: Shin | 2004.03.08 at 02:06 AM

「こっぱ*ず*かしい」だった^^;。
それはともかく、その後もう少し見て回った上で、私のコメントは、他の多くの方が既になされていることと比較して特に新しいし点が無いなぁと思いましたので、流してくださいませ_o_。

Posted by: Shin | 2004.03.08 at 09:04 AM

 Shinさん、こんにちは。
 他も見て回られたんですね。この話題は主にココログ外で燃えたみたいで、私の文章は単に最初のネタになっただけでして。
> しかし、通常、信頼性は初稿の誤りの数よりもそれに気付いた際の対応により決まってくるように思います。
 について。その「誤り」が取り返しのつくものならいいのですが、「誤り」によって一度きりの人生が狂う人がいる場合には、専門家は非常に慎重にならなければならないと私は思っています。

Posted by: ここの管理人 | 2004.03.10 at 06:59 AM

崎山さんのページへのtrackbackをみてきました。
「組織の中の研究者・技術者がウェブで語るとき」には指摘したい点と反対したい点がいくつもあります。ここでコメントすることが不適切であれば、適時移動なり削除なりしていただけますでしょうか?

・まず一つ目は、組織名を明示している人とそうでない人の区別がきちんとされていないことです。組織名を明示しない人は、よほどの著名人でもないかぎり、個人としての責任しか負わないのが原則であるべきです。とうぜん、その人がなにを言おうが組織とは関係ありません。

現在所属している組織名を明示して著述する場合は、その機関としての発言とみなされる恐れもあるわけで、組織との事前事後のすり合わせが必要になるでしょう。場合によっては組織内の制裁の対象となることもありえるでしょう。しかし、それもまた個人や管理する組織の責任であって、あえて倫理として規定されるものではないと思います。

社会人マナー集みたいなコンテキストならともかく、技術者/研究者としての倫理とはいえないと思います。

・「連帯責任」はやめよう。誰かを雇うなどの選択をした人は、その人の責任でやっているのです。必要以上の責任感を感じさせて、萎縮させるのはよくないことです。間違った連帯責任を負うような組織であれば、それは組織が悪いのです。

・専門知識はだれのものでもありません。特別に守られた知的財産や営業秘密などをのぞき、人間の技能や専門知識はそのひとの特性なのです。もし他人の知識や能力を所有することができるなら、たとえば看護学校などでおきた人身売買のようなお礼奉公を認めることになります。

・自己矛盾になっていること。この文書を読んだ人は「分析業界や国立研究所というのは、自由な発言もできない閉鎖的で封建的なところなのだ」と思うかもしれません。わたしはそう思わせる文書を書くことも自由だと思います。でもこの文書のガイドラインを守るなら、「組織や業界に迷惑をかけている」ことになりますよね。

Posted by: arai | 2004.03.10 at 05:01 PM

こんどは、この記事についてのコメントです。

「権威への幻想を捨てよう」

これまで専門家には、権威としての過度の期待が持たれている時代がありました。知識のみならず全人格的に優れているかのような思い込みなどが筆頭です。

しかし、だれしも人間です。厳しい教育や経験を経た人間であっても、ベストの仕事ができないこと、怠慢や過失を犯してしまうこともあるでしょう。

それは隠されるべきことでしょうか。いいえ、それは明らかにされるべきです。もはや大衆が権威を盲従する時代ではありません。ミスや怠慢などを隠す姿勢こそが、人々の信頼を失わせるのです。

とくに専門職の人間は、自分たちの問題を隠そうとする傾向が強いようです。しかし、そうしたことが過重労働によるミスの頻発やら、勉強不足による知識低下、体系的な信頼性向上策の欠如などの問題を招いてきたのではないでしょうか?

例をあげるなら、研修医・若手医師の過重労働などがあげられます。業界の圧力を受けたり、自分たちの専門職としての威信を守るために、かれらは声をあげようとしませんでした。しかし、どんなに隠し通そうと、36時間寝ていない人間に診療されるという事実は変わらないのです。医師たちが素朴な愚痴やはけ口を著述することによって、もっと幅広い議論がおこったならどんなに素晴らしいことか。

Posted by: arai | 2004.03.10 at 05:13 PM

 araiさん、はじめまして。blogを訪問させていただきました。ソフトウェア業界で働いておられて、4月から大学院博士課程へ進学されるんですね。コンピュータ関連の業界は、化学系に比べたらオープンなようだなと感じます。何度も書いていますが、私は小心な人に対して「こう考えれば気持ちが楽になる」という方法論として書いています。ただし、研修医がホームページで過重労働の実態を匿名で書くようなやり方は、世間の不信や患者さんの不安を人質に取るようで、あまり賛成できません。まずは労働を管理する立場の人に直接訴えるべきではないでしょうか。
 所属先を書く・書かないの件については、記事にしました。

Posted by: ここの管理人 | 2004.03.14 at 02:53 AM

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